星の塔を降りた一行の中で、ある事が話し合われた。
全ての終わりが近づいていることを、仲間の誰もが感じていたからだ。
話を切り出したのは、始まりをもたらした少年だった。
「……このまま行ってもいいの？」
初め、仲間達はその言葉の意味するところが分からなかった。
そんな彼らを見て、説明不足を自覚したのか、セルジュは続けて話し出した。
「多分、これで終わると思うんだ……何もかも。
だからその前に、何かやっておきたいことはない？
会っておきたい人は、いない？」
セルジュの言葉に、仲間達は皆考え込んだ。
全ての終わりの前に、為しておきたいこと。会っておきたい人。
両方とも思い浮かばない者は、一人としていなかった。
皆のその様子を見て、セルジュは微笑みながら言った。
「きっと、皆何かあるよね。誰かいるよね。ボクもあるんだ。
やっておこう。会っておこうよ」
その後の話し合いで、そのための期間は一日だけ、と決まった。
長い時間を要する用事がある者もいなく、また、あまり時間を割ける状況でもないからだ。
『時を喰らうもの』―――『時喰い』は、未だ時の闇の彼方に存在するのである。
しかし、セルジュの提案は、そのように予断を許さない状況だからこそ行われたものだった。
仲間達が自分についてきてくれた理由は、様々である。
だからこそ、自分と共に戦う理由も、また様々なのだ。
その『理由』を、確認してほしかった。
そして、疲れた心と身体を休められる場所や人が存在するのなら、行かせてあげたかった。
皆が思い思いに散らばった後、話し合いをした船の中に残ったのは、
セルジュ以外では一人だけだった。
キッドである。
「残ったのはボク達だけだね」
小さく笑って、なんとなく意味深に聞こえる発言をしたセルジュに、
キッドはいつものように返した。
「何がおかしいんだよ」
「ううん、おかしいじゃなくて……。良かった、って思って」
仲間内では折り紙つきと評される彼女の照れ性が、余計に彼女の態度をぶっきらぼうにする。
「何だよ、わけわかんねぇことばっか言って」
キッドとて、セルジュの言いたいことが解からないほど鈍くはない。
だからこそこのような態度を取ってしまうことを、セルジュは知っていた。
特に気を悪くすることでもない。それこそ、つい笑ってしまうようなものなのだ。
キッドは、自分の心がなんとなく読まれていることに気が付くと、照れ隠しに余計可愛げのない態度を取る。
後になって、彼女がそれを後悔することはざららしいので、セルジュは気付かぬ振りをしているだけなのだ。
それに、セルジュ自身、このような微妙なやり取りが嫌いではなかった。
無論、もどかしさはある。だが、今はこれでいいような気がしていた。
不意に、セルジュは椅子から立ち上がった。
「どこか行くのか？」
「うん。帰ろうかな、と思って。……君と一緒に」
彼の突然の提案に、キッドは驚いて言った。
「と、突然勝手なこと言うなよ！何でオレがお前と一緒に……」
「君がどこか他に行きたい場所がなければ、だけどね」
セルジュは、それ以上余計なことは言わずに、キッドの返事を待った。
しばらくの沈黙の後、下を向いたまま、キッドは小さく答えた。
「……行く、よ」
その言葉に、セルジュはとても嬉しそうに微笑んだ。
照れを隠そうとして、キッドは急いで話題を振る。
「でも、お前、お前の母さんに会いに行くんじゃないのか？
家族水いらずの方が……」
「気にしなくていいよ。ボクも母さんも、賑やかな方が好きだから」
そう言って、セルジュはまた微笑んだ。
つられたように、キッドも微笑んだ。
久しぶりに見た彼女の笑顔は、十年前と変わらない、優しい笑顔だった。
二人がアルニ村についた時、太陽はもう西に沈みかけていた。
あちこちの家から炊事の煙が漂い、遊んでいた子供達が、走って家へ向かう。
昼間の賑やかさが消えた寂しさと、家々に灯る明りが醸し出す穏やかさとが同居する、不思議な時間。
久々に帰った故郷の、何一つ変わらない風景に、セルジュは深い安堵を覚えた。
アルニ村は、テルミナや大陸に住んでいる人から見れば、立派な田舎であろう。
何の変わり映えもしないという理由で、田舎を嫌う人は多い。
しかしセルジュは、いつも変わらずに迎えてくれる自分の故郷が好きだった。
そしてキッドも、何度かこの村に来て、ここを気に入っていた。
彼女の出身地とアルニ村は、環境を考慮すると全く似ていないはずなのだが、
キッドはここに来ると、不思議な懐かしさを覚えるのだった。
「ただいま、母さん」
家の奥から出て来たマ−ジは、息子の横にいる意外な訪問者の訪れに驚いたようだったが、
快く二人を迎えてくれた。
「珍しい時間に帰ってきたのね。何かあったの？」
母の問に、セルジュは首を振って答えた。
「そういうわけじゃないよ。ちょっと帰りたいなって思っただけ」
息子の真意を、マ−ジは間接的に理解した。
それから、その隣に恥ずかしそうに立っている少女に視線を移した。
「今日は随分かわいい娘を連れてるのね」
微笑んだマ−ジを見て、セルジュは母親の勘の鋭さを感じた。
自分がキッドを連れて来た理由を悟ったのだろう。
こちらにもまた、息子としての勘の働きがあった。
「は、初めまして……」
おずおずと挨拶するキッドを見て、セルジュは思わず笑ってしまった。
「そんなに堅くならなくていいのに」
「だ、だってよ……」
二人のやり取りを、マ−ジは笑って見ていた。
息子も奥手な方だとは思っていたが、どうやらこの娘はそれを上回るらしい。
セルジュは物事の本質を見抜くことに長けているが、それはこの母あってのこと。
彼女の眼にかかれば、それくらいのことはお見通しである。
夕食の片付けを手伝うセルジュに、マ−ジが小さな声で話し掛けた。
「いい娘ね、あの娘は」
「うん。本当にそう思う」
少し離れた所で飼い猫の相手をしているキッドを見ながら、セルジュはそう答えた。
「お前にも合ってると思うわ」
「……そう、かな」
「ええ、そう思うわ」
そう言ってから、マ−ジはキッドに声を掛けた。
「さあ、そろそろお休みなさいな、キッド」
キッドは頷くと、ちらりとセルジュの方を見た。
「先に上がってて。ボクもそろそろ行くから」
言われて、キッドは素直に二階に上がった。
階段を上る音が聞こえなくなると、マ−ジは悪戯っぽい笑みを浮かべて言った。
「まあ、程々に頑張りなさいね、セルジュ」
セルジュは、顔を赤くして少し黙った後、小さく頷いた。
キッドは持ってきた荷物の中から、白い服を取り出した。
ドクの元で世話になった時に、亜人の看護婦がくれたものだった。
要するに寝巻きである。
女らしい格好を嫌っているため、普段ならどう考えても着ないものなのだが、
義姉ルッカからの手紙を読んでから、キッドはなんとなく自分の格好を気にするようになっていた。
それでも、同じ年頃の少女達に比べるとまだまだなのだが、
確実に洒落気なるものが出てきたと言える。
キッドは慣れない感じでロ−ブを着ると、今度は髪に結んだリボンを一つずつほどいていった。
別におさげのままでも良いのだが、ほどいた方が、眠るのには楽である。
ほどき終わった自分の髪を見て、キッドは思った。
（けっこう伸びたんだな……）
セルジュに出会って、一緒に旅をしてきた今までの時間は、
瞬きする程の一瞬に等しい短さだった気がするのに。
穏やかな時は、あっという間に過ぎてしまう。
そしてまた、苦しみや悲しみがやって来るのだ。
六年前と同じような、忘れることの出来ない悲しみが、もしまた来たら。
大切な、かけがえのない者を、いとも容易く失ってしまったら。
自分はまた壊れてしまう。
今やセルジュの存在は、キッドの中でとても大きな存在になっていた。
彼がいなければ、今自分はここにいないのだ。
燃え盛る炎の中で、初めて出会った少年は、迷うことなく自分を連れ出してくれた。
深い海色の髪と瞳が、印象的だった。
燃え落ちる家を見て泣き叫ぶ自分を、彼は悲しそうな眼で見ていた。
まるで、自分のことのように。
そうして、彼は言ってくれた。
「どこにも行かない」と。
それから、静かに、優しく自分を抱きしめてくれた。
とても安心できたのを覚えている。
同時に、彼に対し、今にも消えてしまいそうな儚さを感じた。
直感的に、彼が長くはいられないことを悟った。
その途端、言葉が口を突いて出た。
「いつか……いつか、また会える……？」
答えようとしてくれたその時、青い光になって、彼は消えてしまった。
キッドは思わず手を伸ばし、震えるようなその光を包んだ。
でも、彼は戻っては来ない。
自分はまた、置き去りにされてしまったのか。
込み上げる悲しみが、叫びとなって冷たい夜空に響いた。
「わたしひとり、置いてかないで！お願いだから……」
まるであの時の光を辿るかのように、さ迷いながら生きてきた。
名前さえ知らない命の恩人に、一つの思いだけを伝えたくて。
その思いは、再び出会えた今もまだ、伝えられていないのだけど。
そもそも、この思いを何と呼べばいいのか、自分でも分からない。
恋だと思ったこともあったが、今ではそうは思わない。
恋よりももっと、強く、深い思いだった。
そして不思議なことに、恋ほどの激しさはないのだ。
その分、尽きることなく、心から溢れてくる。
この気持ちは、一体何なのだろう。
そこまで考えて、キッドは思った。
セルジュも、自分に同じ想いを抱いてくれていればいい、と。
キッドがふと顔を上げると、翠色のスワロ−が眼に入った。
精霊の宿りし聖剣―――グランドリ−ムである。
なんとなく近づいてみたキッドの耳に、突然男の子の声が飛び込んできた。
「あ！姫様だ！」
「違うよ、リオン。マスタ−が言ってただろ。この娘は『キッド』だ」
「でも、姫様にそっくりだよ」
キッドは突然の出来事に驚いていて、全く会話の内容を把握できていない。
辺りを見回して、声の主を探している。
それに気付いたドリ−ンが、すかさず弟達を制止した。
「こら！あんたら、勝手に話を進めないの！」
「あ、姉ちゃん」
「は〜い」
次々に返事をした二人の声を聞いて、キッドはやっと、
声の発生源がこのスワロ−であることに気付いた。
それを見越して、ドリ−ンがキッドに話し掛けた。
「こうして話すのは初めてね、キッド」
「あ、あぁ……」
どう答えて良いか判らず、とりあえずと言った感じでキッドは答えた。
「アタシはドリ−ン。さっきの子達はグランとリオン。
アタシ達は姉弟でね、今はこの中に宿ってるってわけ」
簡潔に状況説明を終えると、ドリ−ンは少し黙った。
キッドの反応を待ったのだ。
「セルジュが、なんかそんなこと言ってたけどよ……。そうか、お前らが……」
「あんたはマスタ−と仲いいもんな！」
グランの突拍子もない意見に、キッドは顔を赤らめて反論した。
「べ、別に仲良くなんか……！」
「素直じゃないな。その辺は姫様と違うんだね」
リオンの言葉に、キッドは疑問を抱いた。
「なぁ、『姫様』って誰だ？」
三人の精霊は、すぐにはその問に答えなかった。
答えて良いものかどうか、判断し兼ねたのである。
それでもやがて、ドリ−ンが答えた。
「もうすぐ判るわ、キッド」
それを聞いて、キッドは一瞬、もっと具体的な答えを求めようとした。
だが、その言葉が何だか重みのあるものに感じられて、それ以上問うのはやめた。
「さあ、そろそろマスタ−が来るわね。ほら、あんた達、もう寝るよ！」
「は〜い、姉ちゃん。お休み、キッド」
「おやすみ〜」
忙しく三人で話すと、精霊達の声は、ぱったりと止んでしまった。
その慌しさに呆気に取られていると、ドリ−ンの言った通り、セルジュが上がってきた。
キッドの顔と、側に置いてあるグランドリ−ムを代わる代わるに見て事態を察したセルジュは、
笑いながらキッドに話し掛けた。
「もしかして、グラン達と話してた？」
「ああ。驚いたぜ、いきなり声聞こえたから」
「そうでしょ。いつも突然なんだよね。ボクも時々びっくりするよ」
話しながら、キッドは自分の心が、とても穏やかなのを感じた。
いつまでもこうしていたい、という気持ちが、心をかすめる。
そんなキッドの心情を知ってか知らずか、セルジュは彼女に話し掛けた。
「可愛いね、その格好」
思いもしなかった言葉に、キッドは驚いた。
「え？」
特に照れもせずに、セルジュはもう一度微笑んで言った。
「可愛いよ、すごく」
セルジュは人を誉める時、必ず微笑む。
この笑顔で誉められると、誰に誉められるより照れるのである。
あまりの恥ずかしさに反論すら出来ず、キッドは俯くと、そのまま黙ってしまった。
やっと口をきいたのは、十数秒沈黙した後のことだった。
「あ、ありがとう……」
セルジュは、また微笑んでくれた。優しい微笑だった。
「さあ、ボクも寝る準備、しなくちゃね」
言うが早いか、セルジュはさっさとバンダナと手袋を外した。
それらを綺麗に折りたたみ、椅子の上にに置く。
それからベストを脱ぐと、これもまた丁寧にたたんで椅子に掛けた。
これだけ見ても、彼の几帳面な性格を伺うことができる。
「お前、こういうところはほんっと几帳面だよな」
感心したように言うキッドに、セルジュは首を振りながら答えた。
「そんなことはないよ。でも、母さんがこういうことには細かかったから。
なんとなくこうするようになっちゃったんだ」
苦笑するセルジュを見て、キッドは懐かしそうに言った。
「オレも、よく姉ちゃんに言われたよ。『脱いだ物は、ちゃんと畳みなさい！』……ってさ。
……ちゃんと守れば、よかったかな」
「でも、今はちゃんと守ってるでしょ？ルッカさんも誉めてくれるよ、きっと」
キッドの心を察して、セルジュは優しくそう言った。
「そうかもな。……それに、怒る割には、かなり汚かったんだよな、姉ちゃんの部屋」
「そういえば、そうだったね」
「なんでお前が知ってんだ？」
「キッドを助けに行く前に、ルッカさんの部屋に行ったんだ。
火を消す道具はないかなって」
「ああ、アイスガンな。あれ、いっつも触ろうとして怒られたんだよな」
「だから張り紙がしてあったの？」
「そうそう」
話しながら、キッドはあることに気が付いた。
今までは、ルッカのことを思い出すと、憎しみと悲しみで心が締め付けられるように痛んだ。
それなのに、今はむしろ穏やかな気持ちで彼女との思い出を話している。
ルッカからの手紙を、読んだからだろうか。
憎い仇であるヤマネコが、もうこの世にはいないからだろうか。
二つの考えがすぐに浮かんだが、キッドはそのどちらでもない、と思った。
話し相手が、セルジュだからだ。
彼の深く優しい瞳には、どこか人を癒す力がある。
旅の最中、それは何度も感じたことなのだが、今はことに強く、そう感じた。
外は闇に包まれ、人々の気配が絶えた。
波の音だけが、静かに響いている。
夜が来たのだ。
セルジュはランプを灯すと、キッドに言った。
「ボクが椅子で寝るから、キッドはベッドで寝てね」
「お前がベッドで寝ればいいだろ。オレが邪魔してんだしよ」
「ボクはいいよ。キッドは女の子なんだし、ちゃんとした所で寝ないと」
女の子、と言われて、途端にキッドは複雑な気持ちになった。
とは言っても、悪い感情があるわけではない。
嬉しいやら恥ずかしいやら、という状態である。
彼女は別に、女扱いしてほしいと思うことはない。
だが、言われた相手が相手なだけに、特別なものがあるのだ。
素直にその気持ちを伝えられれば良いのだが、そうはいかないのがキッドである。
「へ、変に女扱いすんなよ！いいって言ってるだろ！」
セルジュの方はと言うと、彼女の表情と発言が矛盾していることが判っているので、
怒ることもなく笑って返す。
「ホントにいいよ。キッドがこっちで寝て」
この二人が譲歩しあう時は、最後にキッドが折れてしまうのが常である。
結局、キッドがベッドで眠ることになった。
野宿に慣れてしまったせいか、キッドにとって、ベッドで―――セルジュの言葉を借りるのなら
『ちゃんとした所』で眠るのは、割と贅沢なことである。
だからと言うわけではないが、先程からキッドは何となく落ちつかない気分になっていた。
セルジュの厚意を無駄にも出来ないので、とりあえず横にはなっているのだが、中々眠れない。
（……今、何時だ？）
部屋主の性格か、この部屋には時計がない。
そもそもセルジュには、時計で時間を見る習慣があまりない。
太陽の昇り具合や、星や月の位置、風の感じなど、自然の状態から時間を判断するのだ。
恐らく、幼い頃からの経験で出来るようになったのだろうが、一般人から見ると結構な技である。
（１１時くらい、かな）
闇の具合から察してそう見当をつけると、キッドは余計に眠る必要を感じた。
明日の朝は早いのだし、そろそろ眠っておかなければいけない。
仕事柄夜に活動することの多かった彼女にとって、早寝早起きは辛いものなのだが、
今日ばかりは仕方が無い。
キッドは瞳を閉じ、意識を闇に落とした。
物音で、キッドは眼を覚ました。
寝返りを打って窓の方を見ると、セルジュが立っていた。
立ち上がり、窓の方に近づくと、申し訳無さそうに彼は言った。
「ごめん、起こしちゃったね」
「別にいいよ、オレも眠れなかったしな」
隣に並ぶと、キッドは言った。
「でも、お前が眠れないなんて珍しいな。普段はすぐに眠るくせによ」
「そうだね……自分でも珍しいと思う」
暗闇で伺い知るのは難しかったが、何となく暗い表情で、セルジュはそう答えた。
そして彼は、しばらく黙った後、再び話し出した。
「……予感、がするんだ。上手く言えないけど……嫌な予感が」
意味深な言葉に、キッドは微かな不安を覚えた。
性格的に、セルジュはある程度の確信を持った事でないと、口に出しては言わない。
その事実が、余計に彼女の不安を掻き立てた。
「ごめん、いきなり変なこと言って。……あんまり気にしないで。
気にしたら……きっとキリがないから」
言うと、セルジュは心の中で苦笑した。
気にして眠れなくなっているのは、自分自身だからだ。
「どんな予感だよ。もうちょっと具体的に言えねぇのか？」
そう言われて、セルジュはしばし考え込んだ。
「……長くなっちゃうよ」
言葉にするのが恐いのか、半分言い訳をするように、セルジュは言った。
いつもなら聞かないでおいてやるのだが、今は違った。
キッドは思った。今聞かなければならない、と。
それは、直感のようなものだった。
セルジュが感じた『予感』は、何だかとても大事なことのように感じたのだ。
「長くてもいいから、聞かせろよ。なんか……聞かなきゃいけねぇような気がする」
「うん……分かった」
セルジュは頷くと、ゆっくりと息をついた。
「……ボクは、『調停』っていうのがどんなものなのか、具体的には何も知らない。
もちろん、手順は分かってるよ。星の塔で何度も、ヒントがあったから。
あの順番でエレメントを使って……最後に、クロノクロスを使う。
それが、『調停』だとは思うんだ。
でも……『調停』をしたら、一体何が起こるのか……それが、全然分からない。
何度も、考えたんだけど……。やっぱり分からないんだ」
「時喰いってのが、消えるんじゃねぇのか？」
「うん。それはそうだと思う。でも、『調停』っていうのが時喰いを消すことだとは、
ボクには思えないんだ。あくまでそれは、『調停』のもたらす効果の一つであって……
『調停』の目的そのものは、なんだかもっと違うもののような気がするんだ」
「なるほどな……まぁ一理あるけどよ、それとお前の言う『予感』ってのには、どういう関係があるんだ？」
セルジュはまた考え込むと、思わぬことを口にした。
「キッド。『生きる』っていうのは、何をすることだと思う？」
意外な問に、キッドは驚いた。
すぐに答えを模索したが、少し考えただけで分かるものではない。
セルジュもそれを分かっていたので、そう間を空けずに言った。
「マブ−レの子が言ってた。『ぼくらは皆、海の見ている夢の一部なんだよ』って。
どういう意味なのか、ずっと考えてたんだけど……。
こう言いたかったのかなって思った。
『生きる』っていうのは、『夢見る』ってことなのかな、って。
だったら、ボク達は……生きてるものは皆、夢を見てるんじゃないかな。
自分の『生命』っていう、夢を」
一つの世界で生き、もう一つの世界で死んだ少年は、遠くの海を見つめて、静かに言った。
だがその声は、微かに震えていた。
「『調停』をしたら……ボクの夢は……終わると思うんだ……」
キッドは、弾かれたように顔を上げた。
「それが『予感』か？」
「そう。……大丈夫、死ぬっていう意味じゃないよ。そうじゃなくて……
今、ボクが見てる夢が、終わるってこと。……でも、正直ボクは、それが恐い。
……違う、恐いんじゃないね。……嫌、なんだ」
セルジュが言っていることの意味が良く分からず、キッドは聞き返した。
「一体何なんだ？お前の、『今見てる夢』って」
「悪夢だよ。もの凄い、悪夢。でも……楽しい悪夢、なんだ。変な表現だけど」
キッドはその言葉で、セルジュの真意を感じ取った。
彼の言う『悪夢』とは、恐らく自分達の旅そのもののことを示すのだろう。
これまでの旅は、平穏な生活を送ってきたセルジュにとっては、正に『悪夢』だったに違いない。
見知らぬ世界に迷い込み、突然自らの死を突きつけられ、訳の解からないうちに、
様々なことに巻き込まれていく。これが夢ならば、悪夢以外の何であろうか。
「確かに、今の旅はお前にとっちゃ悪夢だったかもしれないな。
でもよ、何が楽しかったって言うんだよ？『楽しい悪夢』なんだろ？」
セルジュは、すぐには答えなかった。
代わりに彼は、キッドの瞳を、じっと見つめた。
心の奥底まで見透かされるような不思議な感覚が、キッドの全身を駆け抜けた。
「……君に、会えた」
キッドの反応を待たず、セルジュは話し続けた。
「君と過ごした日々は、すごく楽しかった。それこそ、夢なら覚めないでほしいって思うくらいに」
キッドの中に、とても複雑な感情が湧き上がった。
本来なら、それは嬉しい言葉のはずだった。
それなのに、今はその言葉が胸を刺す。
話し続けるセルジュの表情から、深い哀しみが伝わってくるからだ。
「……なんで、過去形なんだよ」
キッドは、そう言うのがやっとだった。
それほどまでに、彼の哀しみは強かった。
「終わらせなくちゃ、ならないんだ……この夢を。
この夢は、ボク達の本当の夢じゃないから」
「計画された、夢……だからか？」
「そう。だから……終わらせなくちゃ。本当の夢を見るために、ね。
ボクは、君に……君に、終わらせてほしい。ボクの夢を」
キッドの眼に、涙が浮かんだ。
自分だって、これが夢なら覚めないでほしい。
眼が覚めた時に、彼がいないことなど、考えたくもない。
自らこの夢を終わらせるなど、絶対に嫌だった。
それでもキッドは、彼の言葉に頷いた。
『彼の夢を終わらせる』―――それは、長い旅の中で、彼が自分にした、初めての願いだった。
叶えないわけにはいかない。不思議な使命感が、キッドを頷かせていた。
「……ありがとう、キッド」
微笑んだセルジュを見て、キッドは、長年の疑問に答えを出した。
六年前に彼に対して抱き、今もまだ持ち続けている『想い』は、何なのか。
あの時、深く心に刻まれた、忘れ得ぬ想い。
「全く、何でこのオレ様が、お前の頼みを聞いてやんなきゃならないんだよ！
礼でももらわなきゃ、ワリにあわねぇぜ」
わざとうんざりしたような口調で、キッドはそう言った。
するとセルジュが、笑いながら言った。
「そうだね、お礼をしなきゃ。何がいい？ボクに出来ることなら、何でもするよ」
キッドは、心の中で苦笑した。
自分がセルジュに何かを頼む時は、お礼をすることなど考えなかったというのに。
貸し借りを考えれば、明らかに彼女の借りは、セルジュのそれより多い。
呆れる程の律儀さである。
『何でもする』と言われて、キッドの頭にある案が浮かんだ。
唐突でもあったし、何より普段の自分からは思いもよらない『案』だった。
「ほんとに何でもいいのかよ？」
「いいよ。ボクに出来ることなら、だけど」
念を入れて確認したものの、キッドは迷った。
いつもなら止めてしまうところなのだが、今夜はなぜかそうならなかった。
「じゃあ、こっち向いて、少しの間眼を閉じろ」
言われたことの意味がよく判らなかったものの、セルジュは素直にその言葉に従った。
「いいって言うまで開けるなよ」
「うん、分かった」
この後彼女が『いい』と言うまでには、少々の時間を要することになる。
キッドは深く呼吸をすると、静かにセルジュに口付けした。
突然のことに、セルジュは驚いて眼を開けた。
だが、またゆっくりと閉じた。
浅いながら、長い口付けだった。
キッドが、静かに唇を離した。
「まだ『いい』って言ってないから、開けるなよ」
照れからきた言葉だったのだが、逆にセルジュは眼を開けた。
「今、『いい』って言ったでしょ」
彼にしては珍しい理屈のこね方だった。
そのためキッドにも、彼が照れているのが容易に分かった。
少し時間を空けてから、セルジュは独り言のように言った。
「……心の準備、出来てなかったから、びっくりした」
「何でもいいって言ったの、お前だろ」
「それはそうだけど……まさか、こういう事だとは思わなかったから」
お互い、まだ恥ずかしさが残っているせいか、何となく会話がぎこちなくなってしまう。
「……それに、初めて、だったし」
セルジュのその言葉に、キッドはあからさまに驚いた顔をした。
「マジかよ！？だってお前、レナとは……？」
「レナとは、確かに仲良かったけど……そういう関係では、なかったから」
予想もしなかった事実を聞いて、さすがにキッドはうろたえた。
キッド自身は、セルジュとレナは幼馴染みで、よく一緒に遊んでいた仲だと聞いていた。
これが幼い頃なら『遊び』だが、年頃の男女に当てはめれば立派な『デ−ト』である。
当然二人は、過去にキスくらいはしただろうと思っていた。
だからこそ躊躇いが軽減されたと言うのに、まさか何もしていなかったとは。
冷静に考えてみれば、セルジュの性格上、確かに何もしていなくても全く不思議はない。
別に『お堅い』タイプではないのだが、どう考えてもその手のことには奥手だからだ。
そもそも、そのようなことに興味があるとも思えない。
「……悪いこと、しちまったな」
キッドは、すまなそうに謝った。
「そんなことないよ。キッドも初めてだったんでしょ？
ボクも、最初の相手は君が良かったから」
「な、何で判るんだよ！」
慌ててキッドが問うと、セルジュは何のことはないという感じで笑った。
「半分、勘だけど……ぎこちなかったからさ」
キッドはそれ以上何も言えなくなり、しばらく黙ってしまった。
照れや恥ずかしさが極限に達すると、彼女は大抵こうして黙ってしまうのである。
辺りは未だ暗く、その表情を伺うのは至難の技であったが、それくらいのことはセルジュには判った。
そんな彼女の気持ちを余計乱すとは判っていたが、セルジュは今の素直な気持ちを、そのまま行動で示した。
俯いたままのキッドを、セルジュは優しく抱きしめた。
それは、いつか彼女にしたのと、全く同じ行為だった。
彼の心に、その時の感情が甦った。
愛しさが広がって―――あまりにそれが強くて、心から感情が溢れ出す。
溢れた感情は、涙になって彼の頬を伝った。
キッドは、しばらくじっとしていた。
だが、やがて彼の身体に腕を回して、自分の身体を預けた。
愛しさと懐かしさが、彼女の心を打った。
しかし次の瞬間、あの時と同じ感覚が彼女を支配した。
今、自分を抱きしめてくれている少年が、この腕の中から消えてしまうような儚さ。
哀しみに満ちた瞳で、彼女はセルジュを見つめた。
「また……いなくなっちまうんだな、お前……」
セルジュは、黙ったままだった。
本当は、すぐに否定してやりたかった。
『どこにも行かない』と、言ってあげたかった。
だが、言えなかった。
あの時と同じ哀しみを彼女に与えてしまうのが、分かっていたからだ。
キッドは、彼の夢を終わらせてくれると約束してくれた。
彼女はもう悟っているのだ。
セルジュの夢が、もうすぐ終わることを。
「ごめんよ……！」
―――それがセルジュの、精一杯の言葉だった。
「……いいんだ。もう」
キッドの意外な言葉に、セルジュは顔を上げた。
「オレは……お前に、いろんなものをもらった。それは、誰にも盗めない宝石だ。
ずっと、ずっとオレの心の中で……輝き続けて、くれる……」
涙混じりの声で、キッドはそう囁いた。
セルジュに、伝えたいことがあった。
いつからか胸の奥に響いていた、夜露の滴よりも微かな囁き。
祈りにも等しいそれは、たった一つの言葉となって、彼女の口を突いた。
「……愛してる」
セルジュの腕に、少し力が入った。
彼は左手でキッドを抱くと、右手でそっと彼女の髪を撫でた。
それから、彼女の耳に囁いた。
「ボクも……愛してるよ……」
そしてセルジュは、今度は自分から、キッドに口付けした。
深く、優しい口付けだった。
夜風が彼らの涙を乾かす頃に、キッドはようやくまともに話せるようになった。
「なんか、余計眠れなくなっちまったな」
セルジュは頷き、ほんの少し明るくなった夜空を見ながら、ぽつりと言った。
「じゃあ、このまま眠らせないでおこうか？」
驚いて振り向いたキッドに対して、セルジュは悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「冗談だよ。さすがに、もう眠らなくちゃね」
そう言ってセルジュは、優しく微笑んだ。
「お休み、キッド。良い夢、見てね」
「……ん。お前もな」
意味深な会話を交わすと、彼らは互いの場所で眠りに就いた。
セルジュは、夢を見た。
金髪の、赤い服を着た少女が、浜に立って遠くを見つめている。
起き上がった自分に気付き、彼女は振り向いて、微笑んだ。
明るく、優しい笑顔だった。
彼女は自分の背丈まで屈んでくれると、右手を差し伸べてくれた。
自分はその手を取った。
その時、彼女の大きな青い瞳を見た。
瞳の奥に、深い海が見えた。
海の底から空を見上げると、眩しい光が射し込んできて、視界一杯に広がった。
全てが、白に染まった。
そして、セルジュは眼を覚ました。
朝の太陽の暖かい光が、部屋に射し込んでいた。
彼は椅子から立ち上がると、徐にベッドの方に向かった。
夢の使者は、あの時と変わらぬ姿でそこにいた。
彼女が眼を覚ました。
大きな青い瞳が、ゆっくりと開かれる。
その奥に、彼はあの時と同じものを見た。
夢から覚める日が来た。
セルジュは、そう強く感じた。
「おはよう、キッド」
そう言って、セルジュは微笑んだ。
いつもと同じ、朝だった。
了
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