振り向いた先に

　隠者の小屋近くの浜辺で、イシトは一人、じっと海を見つめて佇んでいた。
　リデル救出。
　今、隠者の小屋の中では、感動的な再会シーンが繰り広げられていることだろう。そんな場に、パレポリの軍人である自分が居合わせるのは憚られて、イシトはそっと小屋を抜け出した。
　狭い島だ。小屋を出たところで、行く場所があるわけではない。
　イシトは波打ち際に立ち、寄せては返す波を見つめていた。それは、今の自分の心境そのものに思えた。
　自分はいったい何をしているのだ？
　"凍てついた炎"の正体を確かめたいと思った。今、この世界に起きている不可思議な状況を解明したいと望んだ。任務のためではなく、自らの意志で。
　そのためにセルジュと共に行動することを決め、今、ここにいる。
　だが、アナザーとホームという属する世界が違うとは言え、リデルを助け出すために、彼はパレポリを敵に回した。同じパレポリ軍に属する兵士と戦い、あまつさえ、パレポリ軍最終兵器であるアディオスを破壊してしまったのだ。
　パレポリのやり方には納得できない。リデルを救出しなければ、彼女は何をされていたか判らない。間違った事をしたとは、今も思ってはいない。
　蛇骨館での戦闘のさなか、自分は正しいと思おうと努めていた。迷いは禁物だ。一瞬の判断の遅れが、敵味方双方にとって不幸な結果をもたらす。
　イシトは、蛇骨館での戦闘で、パレポリ兵の命を奪うことは極力避けていた。武器を持つ利き腕を撃ち、攻撃力を確実にそぐ。それが、イシトに出来る最上の策と思われた。
　しかし、本当にそうなのか？
　パレポリのやり方は間違っている。だが、それでも自分がパレポリに属していることに変わりはない。パレポリは、これまで忠誠を尽くしてきた母国だ。
　自分は、パレポリを棄てられるのか？
　これまでの２６年の歳月を、今、自分の信念のために否定できるのか？
　"凍てついた炎"を探求しようとするのも、結局はそれを手に入れて本国に持ち帰り、手柄にしたいと望んでのことではないのか？
　否定しては打ち消し、肯定しては打ち消す。自分は、寄せては返す、この波のようだ。
　自嘲しつつため息をついたイシトは、背後に人の気配を感じて、ハッと顔を上げた。特殊部隊隊長として、いくつもの緊迫した状況をくぐり抜けてきたイシトは、こうした場合、すぐさま身構えるのが常だった。だが、背後の人物からは、微塵も敵意が感じられない。ためらいがちにゆっくりと近付いてくる気配に、イシトはあえて振り向かず、そのまま沖に目を向けた。イシトには、その人物が誰であるか、何となく察しが付いた。
　一時穏やかになった水面にちらりと映ったすみれ色の長髪で、イシトはそれが予想通りの人物であることを知った。
　蛇骨四天王カーシュ。出会い頭に、イシトを「パレポリの犬」と罵った男。
　彼は、イシトから数歩離れた所で足を止めた。その意識がイシトに向けられているのは痛いほど感じられるのに、彼はいつまでも口を開かない。たまりかねて、イシトはわずかに首を傾け、目の端でカーシュを窺った。

「……何か用か？」
　

カーシュがキュッと唇を噛みしめるのを目の端に捉えながら、イシトは再び海に視線を戻した。カーシュがわずかな逡巡の後、意を決するように息を呑む気配が伝わってくる。

「……そのまま、振り向かずに聞いてくれ」

　いつもの豪快な大声のカーシュには不似合いな、静かな声がした。

「……悪かった……」

　それは、ともすれば波の音にかき消されそうになりながらも、確かにイシトの耳に届いた。あまりに神妙な様子に、イシトはその言葉の意味を受け取る以前に、なんだか可笑しくて笑い出したくなった。思わず振り向こうとするイシトに、カーシュが慌てる。

「そのまま！　振り向かないで聞いてくれって！」

　イシトも慌てて、また身体を戻す。カーシュが、もぞもぞと照れくさそうにうごめく気配がある。おそらく、頭を掻いてでもいるのだろう。

「気付いてたろう？　俺はおまえを疑ってた。リデル様を助けるとか言いながら、いざとなると、パレポリの奴らと戦うなんてできっこねぇと思ってたんだ……」

　イシトは口元を引き締め、じっと沖の一点を見つめた。視線を動かすと、心までも揺れ動いてしまいそうだった。

「それなのに、おまえはリデル様を助けるのを手伝ってくれた。……済まなかった……」

「謝ることはない……」

イシトの声は冷たく、硬かった。

「君は、本当の事を言ったまでだ。私は確かに『パレポリの犬』だ。君が疑うのは、当然だ……」

「イシト！」

　カーシュが眉を寄せ、叫んだ。目は大きく見開かれ、驚愕の表情だ。

「イシト！　こっちを向け！」

イシトは背を向けたまま、微動だにしない。

「イシト！　こっちを向いて、俺を見ろよ！！」

　それでも振り向かないイシトに、業を煮やしたカーシュが駆け寄り、乱暴に腕を掴む。その腕は、かすかに震えているようだった。

「……ほんとに、そう思ってんのか？　おまえ……」

　正面に回り込んで顔をのぞき込もうとするカーシュから、イシトが逃げるように目を背ける。

「ああ、そうだ……」

「だったら、なんでそうやって逃げるんだよ？」

　カーシュは尚も、イシトの腕を放さない。

「本当にそう思ってるんなら、俺の眼を見て言えよ。自分はパレポリの犬だって、もう一度、そう言ってみろよ！」

　イシトは、さすがに怒ったように眉を寄せ、上目遣いにカーシュを見た。その蒼い眼は、何かをこらえていたように赤く充血していた。カーシュはその眼を見て絶句し、静かにイシトの腕を放した。子供を泣かせてしまったかのような、何とも言えない気分になったのだ。

「……おまえ……なんで……」

カーシュはイシトの背後に戻り、充血した眼を隠すように再び目を伏せたイシトの背を、痛ましげに見つめた。

「ほんとに、自分が今も『パレポリの犬』だなんて思ってるんなら、なんでそんな眼をする？　そんなこと思っちゃいねぇくせに、なんで突っぱったりするんだよ……」

　イシトの肩が、ピクリと揺れる。

「国が違っても、世界が違っても、おまえは、誰が何と言おうと俺たちの仲間だ。パレポリの人間だからっておまえを罵る奴がいたら、俺が許さねぇ！　判ったな！」

　思わず振り向きかけたイシトが、躊躇うように動きを止める。カーシュが口をへの字にして、フンと鼻を鳴らした。

「判ったら、こっち向けよ！　な？」

　イシトはゆっくりと振り向いた。そこには、いつものカーシュの豪快な笑みがあった。

振り向けば、そこに仲間がいる。
判ってくれる人がいる。
背を向けたのは、迷いと惑い。
捨ててしまいたい過去。
振り向いた先にあるのは、本当の自分。

　イシトは照れくさそうに苦笑し、一歩、カーシュに近付いた。

「馬鹿力……」

「あ？」

　怪訝そうなカーシュに、イシトは大げさに顔をしかめ、先ほどカーシュに掴まれた腕をさすって見せた。

「痛かった……銃を持つ利き腕が使えなくなったら、どうしてくれるんだ？」

　カーシュは一瞬、困ったような顔をしたが、すぐに笑い飛ばした。

「へっ。軍人のくせに、それっくらいで泣き言言うんじゃねぇよ！」

「銃を扱うのは、デリケートな作業なんだ。君のようにアックスを振り回せば良いってもんじゃない」

　わざとらしく冷ややかに横目でカーシュを見て、イシトは小屋へ向かって歩き始めた。

「かーっ！　まったくかわいげのねぇヤツ！」

　カーシュはため息混じりに肩をすくめたが、彼にも、それがイシトの照れ隠しだと判っていた。フンッと鼻を鳴らし、カーシュは満足げな笑みを浮かべて、イシトの後を歩き出した。

Ende．