いつかきっと、その時に

　静まりかえった深夜の天下無敵号の甲板は、月明かりを受けて白く光っていた。明日に最後の戦いを控えて、セルジュは落ち着かない心を静めようと、手摺りに寄って暗い海を見つめた。
「眠れねぇのか？」
　突然頭上から降ってきた声に、セルジュは驚いて一足飛び退き、身構えた。クックックと、続けて軽やかな笑い声が響く。セルジュはようやくマストの上にいたキッドの姿を見つけ、ホッと息を吐いた。
「……君も眠れないの？」
　返事をする代わりに、キッドはスルスルとマストを降り、セルジュのそばに飛び降りた。
「ここまで、いろいろあったからな……眠れなくて当然だよな」
　キッドは口の端を上げ、いつもの不敵な笑みを浮かべて見せた。
「最初は、ボクがこんな事に関わっているなんて、考えもしなかったのに……」
　感慨深げに俯くセルジュを、キッドが目を伏せてジッと見つめた。
「……オレが、おまえを引っ張り込んじまったんだよな……」
　少し済まなそうなキッドの様子に、セルジュは驚いて首を振った。
「違うよ！　君が、ボクをここまで連れてきてくれたんだ。あの日……風鳴きの岬で、君が声をかけてくれなかったら、ボクはどうなってたか判らない。突然、自分が死んだことになってる世界に来て、誰もボクを知らない。ボクは知ってるのに……。だから、どうしていいか判らなかったから、君が声をかけてくれて、あの岬にあるボクのお墓を見て、こんなの気にすんなって言ってくれて、ボクはどんなに救われたか判らない……」
　キッドはちょっと照れくさそうに頬を染めた。
「ま、まぁな。おまえ、ほんっと頼りなさそうだったし、ほっとけなかったからな……」
「うん。ほんっと、頼りなかった……。でも、ちょっとは頼れるようになったでしょ？」
　微笑んだセルジュに、キッドは思わず大きく頷き、それから慌てて横を向いた。
「フン。ちったぁ使えるようになったかな……」
　そんなキッドの照れ隠しの言葉にも、セルジュはもう慣れていた。セルジュはうれしそうに笑って、キッドを見つめた。
　勝ち気で、強気で、弱みを見せない少女。口が悪くて、手癖も悪くて、おまけに手も早い。そのくせ、妙に繊細で傷付きやすくて、本当は優しいんだ――。自分を、仲間を、そして何よりもキッドを守りたくて、ボクは強くなろうと思った。
　セルジュに優しい眼で見つめられて、キッドは困ったように口をとがらせた。
　判っていた。セルジュの優しい気持ちは、痛いほど伝わっていた。その想いに包まれて思い切り泣いてしまいたいと、幾度思ったか知れない。だが、今、その腕に寄りかかるわけにはいかなかった。
「何、ジロジロ見てんだよ？　おい、もう休もうぜ。おまえも、まだまだ腕は未熟なんだからよ。明日に備えて、せめて体力付けねぇと、な」
　いつものように憎まれ口を言って、キッドはきびすを返し、船室に向かって歩き出した。その頼りなげな後ろ姿が、セルジュに、ある決心を固めさせた。
「キッド！」
　突然大きな声で呼び止めたセルジュに、キッドが足を止め、その肩がピクリと揺れた。
「キッド……僕は君を――」
「セルジュ！」
　今度はキッドが大きな声で、セルジュの言葉を遮った。キッドの、いつも以上に張りつめた様子に、セルジュが目を見張る。
「……言うな」
　キッドは絞り出すように言った。わずかに俯き、それからぐいっと顔を上げる。
「明日、俺たちはどうなるかわからねぇ。すべてが終わって、この、二つに分かれた世界はどうなっちまうのか、俺やおまえは、どこへ行くのか……」
　真剣な面もちのキッドを、セルジュもまた眉を寄せて見つめる。だが、キッドはわずかに口の端を上げて見せた。
「わかんねぇけど……すべてが終わって、そうしてまた、こうやっておまえの前に立った時、その時聞くよ。な？」
　キッドの蒼い眼がわずかに潤み、いつも不敵な言葉を口にしてきた唇が、無理矢理笑みを作ろうと歪んでいる。
　明日の最後の戦いで、どうなるかは判らない。だが、明日の夜にも、こうして穏やかに向き合っていられるはずがない。それだけは判っている。セルジュがその想いを伝えられるのは、今しかないかも知れない。
　すでに、それは言葉にする必要もない事ではあった。互いの想いを、二人は感じていたのだから。それでもセルジュは、今、言葉にしたいと思った。明日どうなるのか判らないからこそ、口に出せぬまま、会えなくなるのは厭だった。
　キッドはそれを口にさせたくなかった。いや、本当は聞きたかった。だが、自分はどうなるか判らないのに、セルジュは想いを言葉にしたことで、きっと自分自身を縛ってしまうだろう。今、それを言葉にさせてはいけない。
　キッドは全身に拒絶の意思をみなぎらせてセルジュを見つめた。その強い眼に射抜かれて、セルジュは引き下がるしかなかった。
「判った……おやすみ、キッド――」

　――クロノクロスの旋律が、彼方で鳴り響いた。かすかだったその調べが、繰り返し繰り返し、煌めくように鳴り始める。時喰いの身体は、クロノクロスの煌めく響きのように砕け散っていく。
　時喰いに囚われていた少女の眼が、ゆっくりと開かれた。その眼は蒼く澄んで、ジッとセルジュを見つめた。
「キッド？」
　セルジュは思わず呟いた。少女は、確かにキッドによく似ていた。あっけにとられているセルジュの視界の端に、ふらふらとその少女に近付いていくキッドの姿が映った。
「キッド！」
　キッドは少女の隣に並んで、セルジュを見つめた。
「オレは、こうしておまえの前に立つために生まれた――」
　続いて、もう一つ同じ声が響く。
『私は、こうしてあなたの前に立つために――』
　時喰いから解放された少女の眼が、懐かしげにセルジュを見つめている。

「おまえに出会うために――」
『あなたに出会うために――』

　キッドと少女の姿が、ぶれて見えた。辺りはいつの間にか響きが止み、奇妙な静けさに包まれていた。
　セルジュは焦った。このまま、キッドは自分の手の届かないところに行ってしまう。今、言わなければ――！
「キッド！　ボクは――」
　だが、今度も、セルジュの言葉は中途で遮られた。かつてないほどの優しい微笑みを浮かべたキッドの蒼い眼が、優しくそれを制した。
「いいんだ。もう、いいんだよ。分かれた時は、いま一度ひとつになる。別れの時がきた……。おまえはこの旅の記憶を失い、自分の時間に帰るんだ。今度こそ、自分の生を生きろ」
「キッド！」
　キッドの姿が、白くぼやけ始めていた。その姿を求めて叫びながら手を伸ばすセルジュを、白い闇が包む。仲間達も皆、それぞれに白いモヤに包まれていた。ゆっくりと渦巻き始めたその中で、セルジュは仲間達の声を聞いた。
「なんか、いろいろあったけどよ、おもしろかったぜ。もう２度と会えねえかもしれないけどよ……。ヘッ、元気でな、小僧……いや。セルジュ」
「今回は、いろんなことを学んだよ。また会おう、セルジュ！」
「なかなかいい旅だったな、ああ、セー公？　海賊になりたくなったら、いつでも俺のとこへ来い。俺様の天下無敵号に、な！」
　いくつもの声が遠くから聞こえ、やがて何も見えなくなっていく。セルジュはキッドの姿を求め、闇雲にもがき、叫んだ。
「キッド！　ボクは忘れない！　キッドー！！」
　キッドの声が、静かに、そして決して忘れえぬ約束を告げた。
「ありがとう、セルジュ。おまえに会えて、オレはうれしかった。生まれてきてくれて、ありがとう……。会いに行くよ。いつか、きっと……。おまえがいつの時代、どんな世界で生きてようと、会いに行くから……。そうして、もう一度おまえの前に立つ。きっと。だから――」
　声は一旦途切れ、真っ白な何もない空間で、最後の言葉がかすかに響いた。
「――忘れんなよ」

End