| ロスロリエンを出て、一行は川を下っていた。だが、危険なサルン・ゲ
ビアの湍り瀬が、彼らの行く手を遮っていた。 「一日だけ待ってくれ」 アラゴルンは言った。 「西岸のどこかに、古い運搬路があるはずだ。見つけられれば、その陸路を辿ろう。私とレゴラスが、様子を探ってくる。もしも我らが戻らなければ……」 穏やかならざる言葉を口にして、彼は口元を引き締め、わずかに言葉を切った。 「新たなリーダーを決めて、その者に従ってくれ」 アラゴルンはそう言うと、行くぞ、と言うようにレゴラスに向かって軽く顎をしゃくり、いつものように素早い身のこなしで木々の間に消え、すぐに気配を 断ってしまった。レゴラスは残る者たちに向かって小さく手を挙げ、後を追って姿を消した。 フロドは顔を曇らせ、それを見送った。ガンダルフを失って後、彼はアラゴルンを頼りに付いてきた。この先も、アラゴルンの選んだ道を進むつもりでいる。 どこへ？ もちろん、モルドールへだ。 だが、フロドは、アラゴルンの心に、まだ何かしらの迷いがあるのにも気付いていた。 モルドールか、ゴンドールか。 無理もない。アラゴルンは本来、ゴンドールの王たる存在なのだ。そして、今、フロドらを導いて進む彼にしても、裂け谷を出た時には、フロドを助けつつ、 ガンダルフに付いていく事だけしか考えていなかったに違いないのだ。 時が来たら、ボロミアと共にゴンドールに向かうだろう彼を、フロドは責める気はなかった。 その時には、自分はどうするのだろう？ 目の前を流れ行くアンデュインを見つめながら、フロドは一つしかないはずの答えを、自分に問い続けていた。 「……あったぞ、レゴラス！」 フロドたちの元を離れて２時間と経たないうちに、レゴラスは藪の中にアラゴルンの声を聞いた。見つけた運搬路は思ったよりも荒れてはおらず、二人はしば らく道を辿り、古い船着き場をさえ見つけ出した。 「これで、なんとかなりそうだな」 アラゴルンが、ホッとしたように言葉を漏らした。 「……良かった。まあ、ここまで船を運ぶのには、骨が折れそうだけれどね」 レゴラスが苦笑しつつ、肩をすくめる。 「急いで戻ろう。みんな、心配しているだろう」 アラゴルンは促すように、フロドたちのいる方向へ首を傾げ、歩き出そうとした。 「ちょっと待って」 レゴラスが足早に、回り込むようにしてアラゴルンの前に立った。そのまま、じっとアラゴルンの顔に見入る。 「……なんだ？ 顔に、何かついているのか？」 アラゴルンが怪訝そうに口を尖らせる。 「……ひどい顔だ」 「ひどい顔？ ……そんなことは、言われるまでもない！」」 憮然とした表情のアラゴルンを見て、レゴラスはクスリと笑った。 「いや、あなたの顔は、なかなか味のある顔だよ。でも、そういう事じゃなくてね……」 レゴラスは真顔に戻って言った。 「何日まともに寝ていない？ いくらこういう生活に慣れているあなたでも、今回は事情が違うだろう？ オークたちの追跡を受け、大勢の、旅に不慣れな者た ちを気遣いながら……しかも……迷っているだろう……？」 「レゴラス……」 普段の快活な様子からつい忘れてしまうのだが、不老不死のエルフであるレゴラスは、アラゴルンなどよりずっと長い時を生きてきた。その洞察力は、やはり 看過できぬものがある。アラゴルンは、いたずらを見つかった子供のように、きまり悪げにうつむいた。 「そこらで少し眠りなさい。私が見張りをするから」 「レゴラス……だが……」 躊躇するアラゴルンを、レゴラスは軽く睨む。 「私が信用できない？」 「そうじゃないが……皆が待っている。オークどもが付け狙っている以上、少しでも早く戻って……」 「そんな疲れた状態では、何かあった時に対処できない！ ……正しい選択も、出来やしないよ？ あなたを信頼している仲間のためにも、今は少し休むべき だ。大丈夫、近くにオークの気配は感じられない。フロドのそばには、ギムリもボロミアもいるし……そう、それに、サムもフロドも、本当の危険がどこにある か、ちゃんと気付いているよ」 正論でもってピシリと言葉を遮られ、アラゴルンは諦めたようにため息混じりに頷いた。 レゴラスはこんもりと下草の生えた場所に、自分のマントを丸めて枕を作り、促すようにそれをポンポンと叩いた。アラゴルンはうなだれつつそこへ腰を下ろ し、未練がましくレゴラスを見た。 「レゴラス……心配は有難いが、やはり、そうのんびり休んでいるわけには……」 レゴラスは構わず、人差し指をアラゴルンの額に押しつけた。さほど力を入れたわけでもなかったのだが、アラゴルンはやれやれといった表情で、押されるま まに上体を倒し、仰向けに倒れた。 「よろしい」 レゴラスは、口元に笑みを浮かべた。 「私は、人間の身体のことはよく判らないが、十分でも二十分でも、熟睡できればずいぶんと違うだろう」 それから、レゴラスはアラゴルンの瞼に手を乗せ、目を閉じさせる。 「――眠りなさい」 諦めとも安堵ともつかぬ深い吐息をついて、アラゴルンは身体の力を抜いた。 彼は気付いた。レゴラスのいつにない強い態度は、アラゴルンに、無理に休ませられたという言い訳を作ってやるためなのに違いない。それならば、今は言う とおりに心身を休めることこそ肝要だ。 そう思うと同時に、ガンダルフを失って以来、一人張りつめて来た気持ちが緩んだ。信頼できる仲間がいる。自分を理解し、気遣ってくれる存在がある。 「ありがとう、レゴラス」 アラゴルンはほとんど唇を動かしただけでそう言うと、すぐに眠りに落ちていった。 声にならない声ではあったが、鋭い聴覚を持つエルフのレゴラスには、もちろんアラゴルンの言葉は聞こえていた。レゴラスは微笑を浮かべ、アラゴルンの寝 顔を眺めた。 日焼けし、硬く引き締まった顔には、艱難による皺が刻まれている。風雨にさらされたブナの木のようだ、とレゴラスは思った。 初めて会った時には、まだこれほど肌もごわごわしてはいなかった。もちろん、彼が今よりもずっと若い頃のことで、それは当然ではあるのだが、やはり痛ま しいと、レゴラスは思ってしまう。ひどい顔と先程は言ったが、若い頃のアラゴルンは、裂け谷でエルフに育てられたということもあって、エルフのような洗練 された物腰を持っていた。身なりを整えれば、エルフとも見まごう様だったのだ。 レゴラスは自分の身体を眺めおろし、改めて変わらぬエルフの自分と、変わりゆく人間のアラゴルンを思った。 初めて出会った日、あれはもう、五十年ほども前になるのか。『希望（エステル）』と呼ばれて育ったのだと、彼は少しばかり照れくさそうに話した。彼はま だ、自分の生まれを誇りに思いこそすれ、それ故に定められた運命を恐れてはいなかった。彼の目は希望を宿し、身体には力がみなぎっていた。 それ以後、情報交換のために闇の森を訪れる毎に、彼の眼光は鋭くなり、知恵は深さを増し、思慮深く、またそれ故に、運命への恐れも芽生えていった。 レゴラスは知っていた。指輪を捨てに行くと申し出たフロドに彼がついていくと言った時、アラゴルンは、サウロンに対すると同時に、運命に立ち向かう決意 をしたのだ。 「だから私も来たんだ」 レゴラスは囁くように呟いた。 フロドの決意に感じ入ったのはもちろんだが、アラゴルンの運命を見定めたいと思った。否。出来ることなら、彼の力になってやりたいと思った。アラゴルン を助けることは、この中つ国の未来に繋がるのだと、レゴラスは知っていた。それ以上に、アラゴルンという人間を、彼は気に入っていた。 世が世であれば人々にかしずかれる偉大な王であるはずの彼は、危険も厭わず、身なりも構わず、無理解な人々の嘲りも顧みず、野伏として中つ国のために尽 くしてきた。それは歴代のドゥネダインも同じではあったが、レゴラスはしばしばアラゴルンの中に、いにしえの王の威厳を見出した。アラゴルンが王になるの を見たい。レゴラスはいつしか、そう思っていたのだった。 「……どの位眠った……？」 やがてアラゴルンが身を起こした。レゴラスは苦笑した。 「まだ、半時と眠っていないよ」 実際、せいぜい三十分眠ったというところだろうが、アラゴルンは軽く頭を振って立ち上がった。 「もう充分だ。おかげで頭がすっきりした。さあ、急いで戻って、ここまで船と荷物を運ばなければ」 言うなり歩き出したアラゴルンを、レゴラスは少し首を傾げて見ていたが、フッと小さく息を吐いた。 「まあ、良いだろう。さっきよりはマシな顔になった」 すぐれた野伏であるアラゴルンは、藪の中であろうとほとんど音を立てずに素早く進むが、森のエルフであるレゴラスはすぐに追いついて、その背に向かって 声を掛けた。 「アラゴルン」 「なんだ？」 アラゴルンは振り向きもせず、歩きながら答える。その足取りは軽やかで、無理に休ませたのは正解だったと思わせるに充分だった。レゴラスは満足げに微笑 みながら言った。 「この旅に、ついてきて良かった」 「……こんな悲惨で危険な旅にか？」 この意表をつくような発言に、さすがにアラゴルンは足を止め、怪訝そうにレゴラスを見た。レゴラスはさらりと言った。 「だから、だよ」 アラゴルンは真意を探ろうとするかのように、少しの間じっとレゴラスを見ていたが、すぐに、エルフの考えることなんかお手上げだ、とでも言うように軽く 肩をすくめると、また元のように早足で歩き出した。レゴラスもまた、そのアラゴルンの様子にクスリと小さな笑いを漏らすと、負けないほどのスピードで歩き 出す。 危険だからこそ、あなたの力になれる。 危険だけれど、新しい出会いがあり、ギムリとも友達になれた。 悲惨だからこそ、仲間との暖かい交流を喜べる。 悲惨だけれど、その果てにある希望を、我々は見つめ続ける。 「エステル」 不意に幼名で呼ばれ、アラゴルンが少しばかり不機嫌そうに振り返る。レゴラスは微笑んで言った。 「心して行動して下さいよ。あなたもフロドも、我々の希望（エステル）ですからね――」 |