見えない傷２

「別に、痛くなどない……ただ、急に動かなくなった……」

“１０（ツェン）”が運び込まれた陸軍病院で、今は“９（ノイン）”が診察を受けていた。いつもと変わらずほとんど無表情のままながら、わずかに眉を寄せ、先ほど肝心な時にトリガーの上で動かなくなった自分の指を曲げ伸ばしした。それは今、なんの支障もなく動いている。

「怪我をしたわけじゃない。診察は必要ない」

　“９”は短く言って、手を取ろうとした軍医の手を払いのけるようにして手を引っ込め、医師の前の丸椅子から腰を浮かせた。

「しかし……」

　医師は、困ったよう“９”に払われ、宙を泳いだ手を握りしめた。現に、“９”は銃を撃てなかった。狙撃の名手である“９”にとって、銃を撃つ手の重要性は、他の隊員の比ではない。軍医として、それを放置するわけにはいかないのだ。
　だが、立ち上がった“９”は、軍医の言葉を無視し、その背後の治療室の方を見つめた。そこでは、“１０”が手当を受けている。
“９”は、自分が援護できなかったために撃たれた“１０”の容態が気掛かりだった。“１０”とは同時期に“黒き風”に入隊したこともあり、一緒に行動することが多い。陽気な“１０”は、無愛想でほとんど人付き合いをしない“９”にも、こだわり無く声を掛け、信頼してくれている。それなのに、自分はその信頼を裏切る形になってしまった。他人との関係に頓着しない“９”ではあったが、自分のせいで“１０”に怪我を負わせたことは、自分の指のこと以上に気掛かりだった。

「よぉっ」

　その時、丁度“１０”が足を引きずりながら治療室から出てきた。他の人にはただ無表情に見えるだろう“９”だが、今、彼が顔を引きつらせて自分を見つめているのが、もう数ヶ月の付き合いになった“１０”には、一目見るなり判った。“１０”は“９”に向かって笑いかけた。

「そんな顔すんなよ。骨には異常は無いとさ」

「……済まん……」

　“９”は顔を伏せ、ぼそりと言った。相変わらず無表情に見えるが、その顔にわずかに安堵の色が広がった。“１０”は軽く肩をすくめた。

「それより、おまえの方こそどうなんだ？　指が動かなくなったって聞いたぜ？」

「一時的なものだ。今はもう、何ともない」

“９”は、医師のもの言いたげな視線を黙殺し、断定的に言い切った。“１０”が、そうなのか、と確かめるように医師の顔を見たが、医師は困惑したように、二人の顔を交互に見るばかりだ。

「とりあえず、本部に帰ろう。……歩けるか？」

　“９”は“１０”に肩を貸し、診察室を出ようとした。医師が、慌てて後を追う。

「ちょっ……！　診察はまだ……」

　“９”はわずかに振り向き、冷ややかに医師を見た。

「もう良い。指はもう、ちゃんと動いている」

　“９”はさっさとドアを開けて、“１０”を診察室から連れ出した。

「おい。ほんとに良いのか？　大事な指だろ？　大丈夫なのかよ……？」

　 “１０”が上目遣いで、心配そうに“９”を見る。“９”は“１０”の眼前で利き手の右手の指を曲げ伸ばしして見せ、吐き捨てるように言った。

「この通り、何でもない。使いすぎて、一時的に硬直したんだ。昨日も、射撃練習場に行ってきたからな……。あんな無能な医者なんかに掛かったら、大事なこの指の筋やら腱やら、切り刻まれるのが落ちだっ」

　“１０”は軽くため息をついた。他人との接触を好まない“９”にとって、初対面の医師にあれこれと詮索されるのは鬱陶しいことこの上なかったのだろうことは、容易に想像できた。無能呼ばわりされた医師には気の毒だが、“９”の指がもう支障なく動かせるのなら、あえて病院に留まる必要はない。“１０”は“９”に促されるまま、「黒き風」の本部に戻った。

　本部に帰った二人を、控え室の中央の椅子で、隊長のイシトが待っていた。イシトは二人を見ると、少し硬い面もちのまま歩み寄った。

「ひどい怪我でなくて良かった……。医師の診断は？」

　“１０”が、ピシリと額に手を添える敬礼をして答える。

「はっ。骨に異常は無く、２週間ほどで、普通に歩けるだろうとのことですっ。通常任務に戻るには、その後、まだ、数週間を要するかと思われます」

　“９”が、病院で受け取った診断書を差し出す。イシトはそれを受け取りながら、ちらりと目を上げ、“９”を見た。

「おまえの方はどうなんだ、“９”？」

「はっ」

“９”は肯定とも否定ともつかない返事を返し、憮然とした表情を浮かべた。

「もう、何ともありません。自分の失態で、ご迷惑をお掛けしました」

　イシトは、じっと“９”を見た。彼には、“９”がろくに診察を受けずに帰ってきたことが察せられたらしい。

「診断書は？」

　イシトはフッと小さく息を吐いて問うた。診察を受けずに帰ってきた“９”に、診断書は当然発行されていない。“９”が困ったようにうつむく。“１０”が取りなすように言った。

「“９”は、俺のことが心配で、それどころじゃなかったんです。でも、指も、もうちゃんと普通に動いてますよ！」

　だが、イシトは、その冴えた蒼い眼で“９”を見据えた。

「私は君に、なんと言った？　“１０”を病院に連れて行き、君にも、二度とこんなことの起こらないよう、キッチリ診察を受けろと言ったはずだ。そうだな？」

「……はっ」

　“９”は、イシトのきついほどの眼差しを避けるように、その長身をうつむかせた。

「……診察は……受けませんでした。しかし、もう二度とこんなことは――」

「確証はあるのかっ！？」

　普段、激高することのないイシトが、突然大きな声を出した。“１０”も“９”も、ビクリと体を引きつらせた。

「私は、もう誰にも、こんな風に怪我を負わせたくはない。大丈夫なはず、では駄目なんだっ。絶対にもう指が動かなくなることはないと、君は言えるのか！？」

　“９”はギュッと下唇を噛んだ。

「言えないだろう？　原因が判っていないんだからなっ」

　強い調子で言い募ったイシトは、そこまで言って大きく息を吐いた。

「……“１０”、そこで少し休んでいろ。“９”、一緒に来い」

　いつもの穏やかな口調に戻ったイシトの言葉に、“９”が顔を上げる。イシトは硬い表情のまま、もうドアに手を掛けている。

「……隊長？」

　“９”の言外の問いに答えるように、イシトは冷ややかに告げた。

「射撃練習場に行く。ちゃんと撃てるか、試してやる」

　“９”の顔が、わずかに引きつる。
大丈夫だ。大丈夫なはずだ。指はもう、ちゃんと動いている。銃だって、今度は撃てるはずだ。案ずることはない。
“１０”は、“９”の表情を窺い、その不安を察して眉を寄せた。

「どうした。さっさと来い！」

　イシトが、わずかに顎をしゃくるようにして促す。
　“９”は、チラリと“１０”に目を向け、のろのろとイシトの方に向かって歩き出した。

「隊長！」

　二人が出て閉じかけたドアに、“１０”が悲痛な声を掛けた。

～続く～