頭文字Ｌ

　砕ける波の音に意志はなく、夜空を見上げればいつもと同じように月が二つある。彼女がそれに飽きることはなく、今夜も何の変哲のない夜になるはずだった。
　リデルは今日もバルコニーの手すりに頬杖をついた。考えることもいつもと同じで取り留めがない。ダリオのこと、自分に起こる猫の亜人姿の客人がもたらした変化、蛇骨館内の変貌を黙認する父の考え。
（お父様は過保護だわ。心配してくれるのは嬉しいけれど、部屋から出るなという命令を忠実に守る気にはなれないもの。メイドには迷惑を掛けることになるけれど、今の私には自分だけで考える時間が必要なの）
　リデルは月を見上げた。中天に差し掛かる真夜中だが、特に見張りがいなくても、崖にそびえるこの場所は安全だと確信が持てた。事実、彼女がここで物思いに耽るようになってから、危険な目に遭ったことは一度もない。
（ここに来るようになってから？　…いいえ、昔から一度もないわ。気が付けば、私はいつもダリオに守られていた。彼がいたから、私は…）
　リデルは考えを中断した。
（駄目ね、私は。もうダリオはいないのに、昔のことばかり思い出して。勿論忘れることは出来ないけれど、今考えるべき事は別にあるわ）
　彼女は姿勢を正した。邪念を振り払うために集中する。潮風の囁き、波の喧噪、月の輝き、人の声…
（…人の声？）
　気が付いた時にはもう、声はだいぶ近くから響いてきていた。複数で、しかも崖の下からだ。それがはっきりと聞こえたとき、リデルの頭の中で警鐘が鳴り始めた。
「いたたた、いたい、いたいって！　キッド、肩の上で飛び跳ねるのやめてよ！」
「しょうがねえだろ、あとちょっとなんだからよ…　おいアルフ、もっとちゃんと持ち上げろよ！」
「セルジュに言ってくれ。俺はちゃんとやってるぞ」
「大体、こんなとこから入ろうとするのが間違いなんだよ。正面玄関の衛兵眠らせるとかさ、いろいろあったじゃない？　ここのモンスター、やたらと強いし」
「お前、侵入者って自覚あるのか？　もう少し静かにしろよな！」
（大変だわ！）
　リデルはすぐにでも人を呼びに行きたかった。しかし、恐怖と混乱で足が凍り付いたように動かなかった。
（どうしよう？　大声を出せば助けが来る前に私が危ないわ！）
「お、届いたぞ」
　さっきまでリデルが頬杖をついていた手すりに掛けられる未知の人物の手。彼女の視線が釘付けになるその下から、金髪の少女が顔を現した。
　リデルの頭の中で警鐘ががんがんと鳴り響いた。
（助けて、ダリオ！）
「あんたは…　リデルだな。へへ、いい人質が手に入ったぜ」
　少女がリデルに気付いてそう言った。リデルは無我夢中のまま、手すりを這い上がる途中で中途半端な格好をしている少女を思い切り突き飛ばした。
「うわっ！　何すん…」
　少女は後ろにつんのめった。腕をじたばたさせてバランスを取ろうと必死になっているが、空中には彼女を支えるものは何もない。
「キッド！」
　下から少年の声が鋭く響いた。しかしもう遅かった。
「うわあああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッ!!!」
「ああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっっっ!!」
「ぐおおおおおおおおおおおぉぉぉぉぉぉぉぉっっっっ……」
　三人の悲鳴は長く、かき消えるように遠ざかっていった。そして、ばしゃんという水音と共に完全に途切れた。意志のない波の音はすぐに戻った。
「…ご、ごめんなさい…」
　静寂と共に取り残されたリデルは呆然と呟いた。
「私…　そんなつもりは…」
　見下ろしても、崖の下には真っ暗な海が広がっているだけだった。
（信じられない！　私、人を殺してしまったわ！）
「リデルお嬢様、どうかなさいましたか？」
　リデルの心臓が跳ね上がった。
「やだなあ、そんなに驚かないでくださいよ。ここは一般兵士は来られないんだし、護衛の俺だってすぐ分かるでしょう？」
　グレンは朗らかに笑っていた。リデルはおさまらない動悸を抱えたまま思い出した。そういえば、私がここにいる時は別の場所で待機することにしてたっけ…
「お顔が真っ青ですが…　本当に何かあったんですか？」
「いいえ、なんでもないの。少し寒いだけなのよ、グレン」
「それはいけません。早く中にお入りください」
（安心するのよ、彼は何も見てなかったわ。そしてこれからも、きっと誰にも知られることはないでしょう）
　グレンに引かれた手から考えていることが伝わってしまうのではと心配するほど彼女の動悸は激しかった。
　リデルは少しだけ立ち止まって振り返った。
（大丈夫。相手は侵入者だったし、私がやらなくても誰かに排除されていたわ。でも、もしあの一部始終を見ていた人がいたら…）

（報告書に書くべきか？　どうする。大変なものを見てしまったな）
　イシトはバルコニーの物陰から、館の中に入って行くリデルとグレンを見ながらそう思った。

to be continued…
　
　