頭文字Ｌ

カーシュはイラついていた。原因は先ほどの、カーシュをないがしろにしたようなリデルの態度だ。リデルが自分ではなくグレンを連れて足早に去っていったことに、彼は決まりの悪い嫉妬を覚えていた。それに加えて、牢獄のある地下の一室である取調室は薄暗く、かび臭く、狭苦しく、コーヒーが不味い。しかも、目の前に座るスパイ容疑者は金髪碧眼の超美形だった。カーシュは八つ当たり気味にこの男が嫌いになった。
「…で、あんたはそのとき蛇骨館の崖の下あたりで釣りしてたってわけだな？　それで、落ちてく三人組を見て、名前まで知ってるってわけだ」
「ええ、昨日ここに来てくれた…　グレンさん？　彼に話したとおりです。彼等は大声で話してました。私は偶然それを聞いただけです」
「じゃあ、名前以外の会話の内容も知ってるんだな？」
　カーシュは目に見えて不機嫌だった。コック姿の容疑者は怖じ気づいたように声をすぼめた。
「い、いいえ…　あとちょっとだとか、もっと持ち上げろとか、聞こえたのはそのくらいで…　ぎゃあぎゃあ騒いでうるさかったので、迷惑だと思ったのは覚えています。魚が逃げてしまいますから…」
「どんな姿だった？」
「いいえ、それも…　暗かったので」
　カーシュは隣で部下がメモしている速記内容に目を走らせた。
（なかなかボロを出さねえな。一人での夜釣りにアリバイはねぇが、それを考えるんなら全員が容疑者だ。三人の会話の内容を詳しく説明しねえのももっともらしいし、何より物証が…　そうか、物証だ。なるほど）
　彼は思いついたように話を切り替えた。
「そのときの船はあんた個人の所有物か？」
「いいえ…　下積みのコックがそんなもの持てません」
（もっともらしいな。頭が切れる）
　カーシュはにやりと笑った。容疑者は不安そうな顔になった。
「じゃあ、借りたんだな？」
「え、は、はい…」
「レンタル屋に問い合わせろ」
　カーシュは取調室の入り口に立つ部下に命令した。その兵は短く返事をして部屋の外に出ようとしたが、容疑者の言葉に遮られた。
「あ、あの…　レンタル屋には借りてないんです。実は、誰の船なのかも分からなかったんですが…　港にあったのを勝手に借りてしまって…　その、悪いとは思ったんですが…」
　命令された兵がどうしようという顔でカーシュを見た。カーシュは悔しかったが、やらなくていいという合図を出さないわけにはいかなかった。
（言い逃れが上手いぜ。それじゃあ特定のしようがねえ）
　カーシュはまた考えた。
「今着てるその服のポケットに入ってたこれは？」
　カーシュはいくつもの繋がった袋に入っている粉薬を持ち上げてひらひらと振ってみせた。
「睡眠薬です…　不眠症気味なので、持っていないと落ち着かないんです。出来れば返して欲しいんですが…」
（嘘はついてねえな。鑑識の結果と同じだ。それに、どうしてコック服の中に持ってたのかも説明してやがる。抜け目がねえ）
　カーシュは容疑者の方に粉薬を放ってやった。容疑者は手錠につながれた手で必死になって受け取った。
「落書きの話を知ってるか？　あんたがその三人を見た翌日の朝にテルミナの街中にしてあったってやつだ」
「はい…　グレンさんから聞きました」
「“L knows nothing”の“L”は誰のことだと思う？」
　容疑者は少し考えてから言った。
「ご令嬢のリデル様…　のことだとグレンさんが言ってました」
（グレンの奴、余計なこと言いやがって！）
　カーシュは“L”はリデルのことではないと分かっていた。彼女の頭文字は“R”だからだ。グレンは、部外者の犯行だからリデルは“L”だと間違えられたと自然に思っているようだが、カーシュはそれが決め手になると思っていた。
（こいつは蛇骨館に来て日が浅い。だからリデル様の頭文字を“L”だと思ってても不思議じゃねえ。だからさっきの質問から『リデル様だと思う』って証言が取れれば、こいつが凍てついた炎目当ての侵入に失敗して“リデル様は何も知らない”ってことを街中に書いたことへの立証になったのによ！）
　カーシュは半分やけくそになった。
「そうか、それじゃそれがリデルお嬢様のことだったとして、リデルお嬢様は何のことについて何も知らないんだと思う？」
　容疑者はおそるおそる答えた。
「全て、何も…　ってことじゃないんですか？　直訳するとそうだし…」
（無駄な質問しちまったぜ。こうなったら…）
　カーシュが次の手を考えようとしたとき、ドアが開いて部下の一人が取調室に入ってきた。
「カーシュ様、ちょっと…」
「おう…」
　カーシュは部屋の隅に行き、部下の小声に耳を傾けた。
「家宅捜索の結果なのですが…　この男がスパイであるという証拠はありませんでした」
（やっぱりな）
　嘆息し、彼は不安げな表情でこちらを見る容疑者にちらりと視線を送った。
（奴の言い逃れは完璧だ。そんな頭のいい奴は自分の住居だろうが何だろうが証拠を残すようなことはしねえはずだ）
「そうか、お前はもういいぜ」
「いいえ、もう一つ。関係ないことかもしれませんが…」

「何だと!?　玄関にまた落書き!?」
　カーシュの声にイシトは正直びっくりした。この取り調べの間中、彼はずっとらしくもなく緊張していた。本当は緊張した様子を演技しなければならないと思っていただけだったが、質問が進むにつれ、そんな気負いをしている余裕もなくなり、彼は本気でカーシュを手強いと自覚しはじめていた。
（グレンに感謝だな。彼が前もって私に情報をくれたおかげですれすれでかわすことが出来た。それに、この男は私を疑い過ぎている。操られ役には向いていない）
　カーシュがなにやら深く考えるようにイシトの向かいの席に戻ってきた。イシトはまたおそるおそる尋ねた。
「あの…　玄関にまた落書きって…？」
「続きは次回に持ち越しだ。こいつを独房に戻せ」
　カーシュはまた入り口の兵に命令した。兵がイシトの腕を掴んだ。
「え？　ちょっと待ってくださいよ！　もう無罪だって分かったでしょう!?　いい加減、釈放してください！」
（まずい、このまま戻されては！　落書きの内容を聞いてからでないと…）
「カーシュ兄ぃ！」
　イシトが焦りを感じたとき、取調室にグレンが駆け込んできた。
「あ？　何だグレン、お前大佐に呼ばれてったんじゃ…」
「いや、それよりも！　玄関に“R must know everything”ってペンキで殴り書きしてあったんだよ！　知ってる!?」
　カーシュは脱力したように溜息をついてグレンに言った。
「お前…　時と場所を考えろよ…」
（なるほど。またそのテの落書きか。やはりグレンに感謝だな）
　イシトは声を張り上げた。
「どうして隠すんですか？　私はずっと独房にいたんですよ！　その私が落書きできたと思うんですか!?　また私がやったとでも言いたいんですか！」
　グレンがこちらを向いて薄く笑った。
（やはり故意で私に内容をばらしたのか。それもカーシュの目の前で。まったく彼はいい性格をしているよ）
　イシトはなおも騒いだ。
「まだ分からないんですか？　こんな取り調べなんて無意味だ！　私は本当に何もやっていないんだ!!」
「連れてけ」
「はっ！」
　カーシュの命令に従って、速記をしていた兵までもがイシトを取り押さえた。
「放せ！　私は無実だ！　こんな横暴、出版社にでも売ってやる！」
「おい、こら暴れるな！」
　そんなやりとりを続けながら、イシトは取調室から連れ出され、元いた独房に戻された。
　鉄格子を閉められた中で、すっかり大人しくなった彼は思った。
（またわけのわからない落書きか。“R must know everything”…　“R”は全てを知らなければならない…　“R”…　またリデル嬢のことか？　“L”も“R”もどちらもそう読める。右と左ともな。それよりも…）
　イシトは彼を連行し、そのまま牢番についた兵の顔を見た。
（やはり速記をしていた方だな。彼はずいぶんコーヒーが好きらしい。私が一度騒ぐのを見てあっけにとられた後、二度目に騒いでからカーシュの命令があるまでずっと飲んでいたのだからな）
　イシトは顔に出さずに笑った。
（やはり…　持っていると疑われもするがいいこともあるようだ）
　彼は右の手のひらを開いてみた。さっきカーシュに返してもらった睡眠薬の袋が一つだけ、封を切られて中身がなくなった状態で握りつぶされていた。

（また落書き！　今度は“R must know everything”ですって!?　“L”でも“R”でも私の名前になるわ！　やはり彼等が生きていたの!?　それに、また意味がわからないわ！）
　メイドから報告を受けたリデルは混乱した。『見てきます』と言って彼女の部屋を出ていったグレンは戻って来ないが、それでよかったと心底彼女は思った。
（せっかくグレンがのぼせ上がっていたのに、きっとそれを見て冷静になったに違いないわ。関連性なんかないと思った落書きだけど、もう無視できない。いい？　落ち着くのよ。必ずなんとかできるわ。まず、今一番やらなければいけないことを考えて！）
　彼女は考えた。何が何でもあのコックがやったということにするのだ。それこそ、ずっと独房の中にいたからできるわけがないという言い訳が通用しないくらい、徹底的にである。

to be continued…
　
　