頭文字Ｌ

「…俺の役目は」
　リデルは硬直したまま動けなかった。二人の間に横たわる重い沈黙を先に破ったのは、止まらない涙を流し続けるグレンだった。
「真実を理解した上であなたをお守りすることです。だから、真相を突き止めなければなりませんでした。卑怯な方法ですが、俺にはこれしか…」
　彼は一瞬だけ声を詰まらせた。
「誰にも言うつもりはありません。俺に嘘をついたことに関しても何も言いません。忘れろとおっしゃるなら忘れます。だから、お嬢様…　ご自分のしたことの重さをどうか、理解なさってください…」
「…勘違いされては困るわ」
　リデルは耐えかねて冷たく言い放った。もはや遠慮も通用しないと割り切って。
「あなたは私の護衛でも何でもないのでしょう？　無関係とまでは言わないけど、そこまで同情される筋合いはないのよ。私からは何も要求しないから、好きにしたらいいわ」
「そんな…　お嬢様…」
「それとも、今朝のことを気にしているの？　あの時はつい勢いであなたが必要なんて言ってしまったけど、今撤回するわ。私、あなたなんか大嫌い」
「…そうですか…」
　リデルはもう何も言うつもりはなかった。彼女はグレンを尻目に歩き出した。
（お願い、私を嫌いだと言って。私を許さないで。あなたに泣かれるなんて私…　これより辛い罰が思いつかないわ）
「それは構いませんが、そういうことは本人に言ってあげてください。あなた達二人の間に何があったのかは非常に気になるところですが、私は痴話喧嘩に巻き込まれたくはないのでね」
　リデルは立ち止まった。今、何か信じられないものを聞かなかっただろうか？　彼女は振り返ってグレンを見た。彼はなにやら目のあたりをいじっていた。
「それでは、私はこれで。いい独白をありがとう、リデル嬢」
　彼は魅力的な低い声で少しだけ笑い、あっけに取られているリデルの横を通り過ぎていった。緑のコンタクトレンズを外した今、彼の瞳は夜目にも明らかなほどの碧だった。

（あーあ、聞かなきゃよかったなぁ俺、立ち直れないかも）
　グレンはバルコニーの入り口に潜み、こちらに向かって歩いて来る自分もどきが微笑するのを溜息をつきながら見ていた。
　手にしたメモをなんとなく広げて見てみる…　リデルに直談判しようと決心してから、兵舎の出口で一般兵に渡されたものだ。「落ちてたんだけど、表にグレン様って書いてあるから、お前宛じゃないのか？」

　　　　これだけ用意してください。
　　　・金髪のかつら　・銀髪のかつら　・緑色のコンタクトレンズ
　　　・黒装束　・コック見習いを牢から出すように取り合うこと
　　　　品物は庭の隅の井戸の裏まで届けてください。夜、バルコニー
　　　に来れば、全ての謎は解けるでしょう。

　かなり急いで書いたらしく、読むのにはかなり苦労した。しかも、要求が多すぎる。更に、別のメモが入っていて、こんなことが書かれていた。

　　　　このメモを彼女の部屋のドアに挟んでおいてください。

（何だったかな…　確か、“…And I know what you did the night before yesterday”とか…）
　彼ははじめ、ふざけるなよと思って無視しようと心に決めていたが、好奇心に勝てずに何となくこの要求どおりにしてしまった。彼はそのことを今更のように後悔し始めていた。
（あのコックを釈放することは出来なかったけど。だって、お嬢様に釈放された後だったし。まあ、結果オーライ…　じゃないよなぁ。あんな真相なら、知らないままでいたかった）
　グレンはその場を立ち去りながら思った。
（聞かなかったことにしようかな）

「むがががー！　もう少しだったのにィィィ！　あのコック野郎、今度なんかやったら問答無用で無期懲役にしてやるゥゥゥ!!!」
　カーシュはものに当たり散らしたので、周囲から迷惑がられた。

「………？」
　ゾアは３日ぶりに起きたので、どうしてカーシュが怒っているのか分からなかった。

「うっし、アーティスティック！　俺様天才！」
　セルジュとアルフはキッドが誇らしげに胸を反り返らすのを黙って見ていた。武器屋の白い壁には赤いペンキでめいっぱいにこう殴り書きされている。
“ラジカルドリーマーズ　～炎のリベンジャー～　満を持して超参上!!!”
「ださいよね…」
「うむ。ださいな…」
「なんだと!?　てめえら…」
　キッドが思わず声を張り上げて抗議しようとしたとき、夜警の兵が彼等のところにやって来た。
「これやったのお前らか？」
「はい、そうですけど…」
　セルジュはもうどうにでもなれという気分で答えた。
「そうか。逮捕する」
「……………………」
　こうして三人はあっけなく御用となり、何の苦労もなく蛇骨館に行くことが出来ることとなった。

（やっといなくなってくれたよ。後で寝食代とペンキ代請求しよう）
　バンクリフは父親の通帳に書き込まれた数字をこっそり消しながらそう思った。

　リデルは自分の部屋からメイドを追い出し、内側から閉めきって決して外に出ようとしなかった。

　次の朝、イシトは荷物をまとめて蛇骨館を出た。潮時もいいところだ。
（まったく、声真似だけならどうということもないんだが、これが涙声混じりともなると技術が必要だな。目薬も用意してもらうべきだった。まあ、彼の背格好が私に似ていたことだけでもよしとするか）
　イシトはなんとなくおかしくなった。彼は笑いたくなるのをこらえ、自分のしたことを振り返った。牢番を眠らせてまでグレンに手紙を書いたのは大きな博打だった。彼が要求を無視するかもしれないし、聞き入れてくれても、イシトを牢から出すことは出来なかったかもしれない。しかし、彼を釈放したのは、皮肉なことにリデル自身だった。彼はこの偶然に感謝するしかなかった。
（彼女が次の策で私の有罪を決定的にするより、私の悪運が早く咲いたというだけかもな。しかし、私も歴とした諜報員として、彼女の敗因は私を甘く見たことだということにしておこう）
　イシトがテルミナの港まで行くと、見覚えのある顔が待ち伏せていたように彼を見送りに来ていた。グレンは腕を組んで壁に寄りかかったまま、イシトに笑いかけた。
「よお。船で帰るってことは、故郷はガルドーブ？」
　イシトは見習いコックの顔に戻って言った。
「近いですけどね。ここでなければどこでもいいんです。コックを目指せばあれに十年、これに二十年、包丁も握らせてもらえなかったし、変な疑いかけられて臭いメシは食わされるし、挙げ句の果てに私、世間的にリデル様のストーカーってことになってるらしいじゃないですか。もうここにはいられませんよ」
「ああ、一連の騒ぎを俺がそういうことにしてマスコミに発表しといた。せいぜいカムフラージュ役としてがんばってな。演技は得意だろ？」
　イシトは笑った。何も言わなかった。
「だから、こんなもん持ってってもらっちゃ困るんだよ。俺とお嬢様の痴情のもつれだと勘違いされるじゃないか」
　グレンはイシトのポケットに手を突っ込み、小型のカセットテープを取り出した。イシトが昨夜のリデルとの会話を録音したものだ。イシトの見ている前で、グレンは中のテープを引っ張り出した。イシトは怒るよりむしろ笑いをこらえた。
（まいった！　彼は本当に鋭い勘の持ち主だ。黒き風にスカウトしたいくらいだ。それに関してはカーシュも一緒かもな）
「ねえあんた、名前は？」
　イシトは本名を名乗ろうかと少し迷った。
「ユージーンといいます」
「疑問なんだけど、なんでコックなわけ？　俳優でも目指したらいいんじゃないかと思うよ、イシトさん」
　イシトは笑わずにいられず、俯いて喉を鳴らした。
（調査済みか。誰かに話したかな？）
「安心しなよ、俺はただあんたの質問に答えに来ただけだから。そういえば、答えてなかったかなと思ってさ。覚えてる？」
「いえ…　何かありましたっけ」
「リデルお嬢様の血液型はA型、好みのタイプは誠実で温厚な奴だと思う。俺の兄貴と付き合ってたからね。今はフリーだよ。俺の見る限り」
　それだけ言うと、グレンはさっさと歩き去ってしまった。
　イシトは大陸行きの船に乗り、甲板に座った。やがて、笑いがこみ上げてきた。思い出し笑いが大笑いになり、大笑いは止まらなくなった。
（私はリデル嬢のことを蛇のような悪女だとばかり思っていたが、実は私とものすごく相性がいいのかもしれないな。私も誠実さには自信がある）
　久しぶりの、心からの笑いだ。彼はおかしくて仕方なかった。
（しかし、もうそんなことはどうでもいいな。二度とあんなところにスパイになんか入るもんか）

「つまり…　お前がやったのね」
「そ♪　だって、誰も気付いてくれない悪戯ほどむなしいものってないじゃない？　もうバラしちゃう。落書きやったの、あたいだよーん」
　ツクヨミの自白に、マルチェラは怒りを押さえきれなかった。
「ラインピアス!!」
「へへん、当たんないもーん！」
「待ちなさいツクヨミ！　凍らせてやるんだから！　あんたなんかあんたなんか…　あたしの苦労を返してよー!!!」
　マルチェラに追いかけられてさえ楽しそうに笑いながら、ツクヨミは思った。
（“Lefts knows nothing”　…残される者は何も知らない。
“Rights must know everything”　…中心に立つ者は知らなければならない。
みんな、なんだと思ったかなあ？　きっと、ロールシャッハ・テストと同じで一人一人違う意見があるんだと思うけど。その時の心境によって何にだって取れるしね。まあ、あたいもただの気まぐれで書いたんだし、グダグダ悩まないで意味なんかないと割り切るが正解かもね）

「…世の中なんてさあ」
　カーシュはむしゃくしゃしながら自分の部屋の前まで戻ってきた。しかし、扉の前にグレンが座り込んでしゃべりかけてくるのを見つけたとき、彼の頭の中に疑問符が浮かんだ。
「うまくいかないよね」
「そんなとこでなにやってんだ、お前？」
「何って、そりゃカーシュ兄ぃにグチを聞いてもらいたいから待ってたに決まってるじゃないか」
「いいからどけよ。俺が部屋に入れねえじゃねえか」
「いいよ。聞いてくれたらどいてあげるよ」
　グレンは片手に持った酒瓶を掲げてみせた。カーシュは深々と嘆息した。
「…言ってみろ」
「フラれた」
「…で、ヤケ酒してべろべろんなるまで酔っぱらって、俺の部屋の前に座り込んで人生語ってるわけか、お前は」
「悪いかよ。あなたなんか大嫌いって言われたんだぜ、俺は」
「いや…　俺はお前、もーちょっとマトモなやつかと思ってたからよ」
「まとも!?　まともな奴がどこにいるんだよ!?　どいつもこいつもクソッタレ、あんたも俺もクソッタレ！」
　グレンの勢いは止まりそうになかった。目が座っている。カーシュは彼に手を伸ばした。
「はいはい分かったよ、クソッタレだよ。いいからもうどいてくれよ。部屋まで連れてってやっから」
「俺は酔ってないからな。分かってんのカーシュ兄ぃ？　俺は素面なんだよ！」
「はいはい酔ってねえよ。シラフだよ。分かったからもう行こう。な？」
　カーシュはグレンを引っ張り起こし、肩を貸して歩き出した。
　まったく、仕方のない弟だ。あなたなんか大嫌いくらいでこんなにヤケになるとは。俺なんか、そういうことに関しちゃリデルお嬢様に無視され続けたんだぞ。まあ、気持ちは誰よりも痛いくらい分かるから、今日はこのままそっとしておいてやろう。

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