頭文字Ｌ

　リデルが部屋を出ようとドアを開けたとき、挟まっていたいたらしい紙切れが足下にひらひらと落ちた。
（何かしら？）
　彼女はかがんでそれを拾い上げた。そして、その紙切れに書いてあった文字を読んで絶句した。
“…And I know what you did the night before yesterday”
　リデルは真っ青になり、その紙切れを握りつぶした。

「さっきの睡眠薬、まだ持ってんのか？」
　カーシュがいきなり牢にやって来て、鉄格子越しに金髪の容疑者の尋問を始めた。イシトは釈然としない面持ちでつっかえつっかえ答えた。
「え、ええ…　それが何か？」
「見せてみろ」
　イシトは疑問に思った。カーシュに勘付かれるようなことを言っただろうか？　彼はコック服のポケットの中からおそるおそる薬を取り出して掲げた。
「ひい、ふう……　袋の数が取り調べん時よか足んねえな」
「あ、はい…　一つ飲みましたので…」
「取り調べは昼だったんだぜ？　その後寝たのかよ」
（まさか、この男は私が番兵を眠らせて外に出たことに気付いたのか？　あの兵が私の身代わりをしている時に起きた形跡はなかったし、私は誰にも見られなかった筈だ）
　イシトは慎重に言葉を選んだ。
「頭痛がしたもので…　寝れば治るかと思いました」
「そんなに軽々しく使える薬なのか？　そもそもあんた、これどこで買ったんだよ」
「病院で診察の後に渡されたんですが…」
　カーシュがにやりと笑った。それを見たイシトは頭の中で警鐘が鳴るのを感じた。
「どこの病院が不眠症気味っつうだけの患者にこんなきっついもん渡すんだ？　これはクロラル・ハイドレートっつってな、少なくとも、エルニドじゃ絶対使わねえやつなんだよ。とすると…」
（まさか！）
　カーシュがさらに続ける言葉にイシトは絶句した。
「あんたのかかりつけは大陸の病院か？　パレポリじゃ一般的らしいけどな。特に、パレポリ兵は誰でも持ってるって聞いたぜ」
　あまりのショックにイシトは言い訳が思いつかなかった。リデルばかりに気を取られて、この男の対策を全くしていなかった自分の甘さ。四天王カーシュ、この男こそが彼をを陥れようとしていたのに！

　カーシュはほくそ笑んだ。この反応こそが欲しかったのだ。
（かまをかけたのが大当たりだぜ。この程度の薬、こっちだって普通に使ってるに決まってるだろーが。エルニドの文明を見下してっからこんな誘導尋問に簡単に引っ掛かんだよ。やっぱこいつ、パレポリのスパイで間違いねえようだな）
　もう一歩だ。もう一歩でこの善良ぶったコック見習いの化けの皮が剥がれる。確実に自供させるため、カーシュはさらなる尋問を続けようとした。

　リデルは信じられない光景を見た。カーシュが牢獄であのコック見習いを尋問しているではないか。あれほど放っておくように言ったのに！
（もう私の周りに味方はいないってことね！）
　苛立ちを隠そうともせず、彼女は地下牢の入り口から怒鳴りつけた。
「カーシュ！　何をしているの!?」
　カーシュは驚いた顔をしてリデルを振り返った。
「リ、リデルお嬢様？　ここで何を…」
「何をしているのか聞いてるのよ。彼のことはそっとしておいてあげてと言ったでしょう？　もういいわ、彼を釈放してあげて」
　カーシュは耳を疑った。コックはもっと驚いているようだった。
「お、お嬢様？　今、何て…」
「聞こえなかったの？　牢から出してあげてと言ったの。もう、意味のない拘束はやめましょう」
「意味がないですって？　とんでもない！　彼は本当にスパイなのです！　今彼を逃がしたりしたら、お嬢様だけでなくこの蛇骨館全体が危険になるんですよ!?」
　リデルは聞き分けのないカーシュに心底怒りを覚えた。確かに自身を危険にさらすことを承知でこの無実のコックを疑うように仕向けたのはリデルだ。しかし、カーシュは自分の思い込みだけを頑なに信じ、リデルを裏切る行為に走っている。彼女にとってもカーシュはノーマークだった。その彼がそこまでするのがリデルには許せなかった。
「それだけなの？　あなたの言う意味って。私は彼に改心してもらいたかっただけだと言ったでしょう？　そんなに彼の存在が危険なら、ここにずっと居させておく方がよほど危険だわ！」
「お嬢様？　ご自分が何をおっしゃっているか分かっておいでなんですか？」
「ええ、分かっているわ。だからもういいのよ。早く扉を開けなさい」
「しかし…」
「あなたがやらないなら私がやるわ」
　リデルは、あっけに取られてカーシュとのやりとりを見ている牢番から鍵を半ば強引に受け取ると、同じくあっけに取られている容疑者の独房の扉を開けた。

（ついトゲトゲしてしまったわ。私も相当疲れてるわね。でも、今だわ。あのコックが自由になって、まだ蛇骨館を出ていない今に騒ぎが起きれば、今度こそ確実に根拠のある容疑を彼に掛けることが出来る。さあ、どうす…）
　リデルは凍り付いた。彼女は自分の部屋の前に戻ってきていた。彼女の部屋のドアに、さっき握りつぶしたのと同じ紙切れのメモが画鋲で張り付けられている…
“I know what you did”
　リデルは力任せにその紙切れをひったくると、部屋の中に閉じこもって内側から鍵を掛けた。
（やはり特定を最優先するべきだったわ！“L”リデルは何も知らなくて、でも“R”リデルは何もかも知らなければいけない。この“私”がリデルのしたことを知っているから！　あれは私に対する一連の脅迫文だったのね！　一体誰が…）
　リデルは用心深く部屋の中を見回した。彼女以外に誰もいない。しかし、誰かに見られているような気がしてならなかった。化粧台にふと目を留めた時、その鏡を見て彼女はまた凍り付いた。
　引き出しの中にあった彼女の口紅でこう殴り書きされている…“I know”
　リデルは部屋を飛び出した。安全な場所なんてどこにもない！　彼女の頭の中はもはやめちゃくちゃだった。二つの月が輝くバルコニーまで走り、崖から下を見下ろした。誰もいなかった。
（馬鹿なこと考えないで！　海の中から蘇ったとでも？　彼等は私が殺したのよ！　私が殺したから、今、こんなことに…）
「お前がリデルだな」
　いきなり聞こえた低い声がリデルの心臓を跳ね上がらせた。彼女は混乱のあまり、背後から近づいて来る人間の気配に気付かなかったのだ。彼女はおそるおそる振り返り、激しい動悸のまま答えた。
「…そうよ」
「凍てついた炎はどこだ」
　月の逆光で顔は見えなかったが、声と体格から男だと判別できた。黒装束の男は、ゆっくりとこちらに近づいてきた。
「…あなたは誰なの」
「私の質問に答えろ」
「あのメモはあなたがやったのね？　私を揺さぶって、凍てついた炎の情報を聞き出すために！」
　男はさらにリデルに近づいた。彼女はじりじりと追い詰められながら、徐々に彼の容姿がはっきりしてくるにつれ、驚愕を隠せなくなっていった。
「そんな…　カーシュの言うとおりだったなんて！」
「私の顔に覚えがあるか」
　服装こそ違えど、その金髪、魅力的な低い声は間違いなくあのコックのものだ。彼女は無理矢理自分を落ち着かせた。知っている人間ならどうとでもなる。
「…ええ、ちょうどよかったわ。これから本格的にあなたに犯罪者になってもらうつもりだったのよ。適当に容疑者に仕立て上げたつもりだったのに、本物のスパイだったなんてね。しかも、自由になった途端だもの、言い逃れはできないわね？」
「時間稼ぎをしようと思うなよ？　言っておくが、大声を出したら殺す」
　リデルはどうしようか迷った。勝手に部屋を飛び出してここに来た今、近くに兵はいない。容疑者は捏造できるが、自分の命は大事だ。
「分かってるわ。でも、私としても、あの現場を見た人間をいつまでも放っておくつもりはないのよ。私が部屋にいないことを知ったメイドがもうすぐここに来るでしょう。それまで、あなたに身の振り方を選ばせてあげる。私があの三人を殺した事をずっと黙っているなら、私もあなたのことは誰にも言わないわ。どう？」
　リデルの強気な態度に弱ったわけでもなさそうだが、男は少し俯いた。その様子をリデルは訝しく思った。
「…そうか。一つ、言っておきたいことがある」
「構わないわ」　
「…人間の悪はいくら説明しても正当化され得ない。言い訳になるだけだ…　俺にそう教えてくれたのは、あなたじゃないんですか…？」
　リデルはそれを聞いて驚愕した。男の言葉に涙声が混じり、いつの間にか魅力的な低い声が聞き慣れた高めの声に変わっている。
「…そうですよね？　リデルお嬢様…」
　目を見開いたまま立ちつくすリデルの目の前で、グレンは金髪のかつらを取った。月明かりに反射する涙をぬぐおうともせずに。

to be continued…
　
　