頭文字Ｌ

（どうなっているんだ。報告書を誰かに見られたのか？　いや…　あれは暗号化してあるから、読んだところでただの手紙にしか見えない筈だ。銃は隠してあるし、バレる要素とといえばあれしかない。しかし…）
　両手首にかけられた鋼鉄の手錠の重さが激しかった動悸を鎮め、目の前に塞がる鉄格子がイシトをどん底まで沈ませるようだった。しかし、納得のいかない彼は、ただ絶望して刑の宣告を待つ気にはなれなかった。
（私はリデル嬢の話をグレンに持ちかけただけだ。それだけでパレポリのスパイだということがバレたのか？　有り得ない）
　イシトを捕まえたカーシュはこう言った。スパイ容疑でお前を逮捕する。これしか言わなかった。まだ取り調べもない。
（容疑…　私はどうして私がスパイだと思われたのかを聞かされていない。まだ確定の段階ではないということだ。つまり、証拠がない。誰かの証言のみによる捕縛であることは間違いないだろうな。証言だけで四天王を動かし、証拠もないのに容疑者を牢獄に叩き込める人物が私を陥れようとしている）
　そこまで考えて、イシトは現実に引き戻された。聞き覚えのある声が入り口の方から響いてきた。
「牢番、ご苦労様です。交代します」
　その姿にも見覚えがあった。
（グレン！　そうか、彼がいたじゃないか！　さあ、ここに来るんだ）
　グレンは間違いなくこちらに向かって歩いてきた。イシトは顔に出さずに狂喜した。
「よお、あんたのせいでお嬢様の護衛クビになったよ。その根性、尊敬するね。あの崖をよじ登ってお嬢様を襲おうをしたんだからな。それでぬけぬけと皿洗いなんかやってんだから、勿体ないくらいいい度胸してるよ」
（そういうことだったのか）
　グレンの言葉の中にはイシトが知りたかった情報がすべて組み込まれていた。イシトは頭を急回転させた。
「ど、どうして私がそんなことを!?　あなたのお皿を下げようとしたことは謝ります。でも、仕返しなら度が過ぎるんじゃありませんか？　ここから出してください！」
「あんた、自分がどうして牢屋に入れられたのか分かってないのか？」
（彼は勘がいいな。私の言いたい矛盾点を的確に把握してくれている）
「分からないも何も…　私はただお皿を洗っていただけなのに、あの背の高くて青い髪の…　ええと」
「カーシュ？　四天王の」
「そうです、その人です。四天王の方だったんですか？　その人がいきなり来て、スパイ容疑で逮捕するって…　それで、何がなんだか分からないうちに私はここへ…」
　イシトは鉄格子に掴まって力説するようにしながら、グレンの様子を見た。グレンは疑わしげな表情をしていたが、少し考え込んでいるようだった。
（考えろ。そして気付くんだ。本当に疑わしいのは誰なのか）
「なあ、あんたそれ、俺以外の誰かにちゃんと説明した？」
「出来るわけないでしょう？　反論する暇があったと思うんですか？」
「じゃあ、取り調べもされてないのか…」
「お願いします、ここから出してください。私は本当に何もやってないんです…」
「そうだな。犯罪者はみんなそう言うんだ」
（彼は生意気なクソガキだ）
「カーシュ兄ぃの…　あんたを捕まえた人の自称スルドい推理によると、今朝テルミナの街中にしてあった落書きもあんたがやったことだそうだ。“L knows nothing”、リデルお嬢様はあんたの知りたい情報を何も知らないってこと。お嬢様のせいであんたの計画が失敗したことへの腹いせでやった。そうなのか？」
（私が凍てついた炎のことを知っているか探りたいんだな。容疑を決定づける決め手にするつもりだ）
　イシトは考えた。
「それなら、あの人たちがやったんじゃないですか？　三人だったし、私一人では一晩に街中になんてなんてとても無理ですよ。そのくらい分かるでしょう？」
　グレンは初めてイシトの顔をまじまじと見つめた。
「あの人たち？」
「ええ、私、夜釣りの趣味があるんですが、一昨日の夜、船でちょうど蛇骨館の崖の下まで来たときでした。崖をよじ登っている人を三人見つけたんです。びっくりしましたよ、上まで登ったら海に飛び込むなんて。そんな変な遊びをする人たちなんだから、落書きくらいどうってことないでしょう」
「何だって!?　本当なのか！」
「名前も聞こえたから知ってます。確か、呼び名でキッド、セルジュ、アルフとか…」
「そんな…　嘘だろ？」
（そうだ、迷うんだ。そして考えろ！）
「この状況で嘘なんかつけません。だから信じてください、私は本当に何も…」
　グレンはまた考え込んだ。そして、思い出したように言った。
「ところであんた、昨日の夜、食堂でお嬢様のことについて話したいって言ってたよな。あれは何だったんだ？」
「え？　それは…」
　イシトは詰まった。本当は直接今の話をするつもりだったので、何も考えていなかったのだ。彼はしどろもどろになりながら適当に言い繕った。
「あ、あの…　あなたなら、彼女と親しくしていたので…　分かるかなと。ほら、いろいろあるじゃないですか、血液型とか、好きな男性のタイプとか、今付き合ってる人はいるのかとか…」
「…なんだ、そのテの質問か。俺の勘違いだったわけだな」
　聞きたいことをすべて聞き尽くして用無しになったのか、グレンは出口に向かって歩き出した。
「じゃあな。そこ寒いから風邪引くなよ」
「ちょ…　ちょっと待ってくださいよ！　ここから出してくれないんですか!?」
「悪いけど、交代の時間なんだ。またな」
　明らかな嘘を投げやりに言ってグレンは歩き去った。後に残されたイシトはとりあえず一息ついた。
（危なかったな。彼は本当に勘がいい。操るのは一苦労だが、それだけ私の切り札に向いているということだ）
　イシトはグレンとの会話の前に自分が考えたことを思い出した。
（私を陥れようとしている人物はどうやらリデル嬢のようだな。彼女は私の正体に気付いていない。取り調べをさせないからだ。私を善良な市民だと思っているから、その善良な市民に嫌疑をかけて投獄したとバレれるのを恐れている。しかし、彼女の正体はよくわかった。とんでもない牝狐だ）
　彼は決意を新たにした。
（私を甘く見ないでいただこう）

　地下牢から出たグレンはひたすら考え込んでいた。ここ最近、ずっとこればっかりな気がする。
（矛盾だらけだ。お嬢様の言うこともあいつの言うことも正しい気がするし、どっちも嘘ついてる気がする。さあ、どうする？　考えるんだ）

「なんですって？　あの人とグレンが牢獄で話を？」
「うん、見た人いるって。なんか、あんたのこと話してたらしいよ」
　いきなり部屋に入ってきたツクヨミの報告に、リデルは自分の顔が青くなるのを感じた。
（逆効果だったわ！　私から離れることで、かえってグレンを冷静にさせてしまった！　これで終わりじゃなかったんだわ。何を話したの!?）
　ツクヨミがにやりと笑って部屋から消えた。それに気付かないほどリデルは焦っていた。
（とにかく、またなんとかしなければならなくなったわ。さあ、今度はどうするの？　考えるのよ、リデル！）

to be continued…
　
　