頭文字Ｌ

「動くな！」
　数人の兵士を引き連れて厨房に踏み込んできたカーシュに、思わずイシトは洗っていた皿を流し台に放って両手を上げた。
「お前がさっきグレンと話してたっつーコックだな？」
　カーシュは間違いなくイシトに言っていた。イシトは頭の中で警鐘が鳴るのを感じながら、しどろもどろに答えてみせた。
「え…　あ、ああ、さっきの方、グレンさんておっしゃるんですか。とんだ失礼をしてしまいまして、本当に申し訳なく…」
「間違いねえんだな？　スパイ容疑でお前を逮捕する」
　イシトは信じられない気持ちでその言葉を聞いた。しかし、イシトが何か言う前に、カーシュの部下が数人がかりで彼の腕を掴んで取り押さえていた。

（…なんでこんなことになったんだ？）
　グレンは大部屋にある自分専用のベッドに寝転がって思い出した。

　彼は食堂から飛び出していったリデルについて庭の片隅まで走っていった。リデルは立ち止まって、振り返らずに震える声でグレンに言った。
「…グレン…　あなた、昨夜は私の護衛でバルコニーの外にいたでしょう？」
「え、ええ…」
「あなたが何も言わないから黙っていたけれど…　何か気になったことはなかったの？」
（何だって？）
　グレンは耳を疑った。まさかリデルの方から昨夜の話を切り出されるとは思わなかったのだ。しかも、今、この訳の分からない状況で。
（なんなんだ？　正直に言うべきなのか？　どうする？）
「お願い…　正直に言って」
　グレンは正直になるしかなかった。
「えっと…　昨夜ですか？　なんか…　叫び声みたいなのが聞こえたのでお嬢様の所に駆けつけたんですが、お嬢様がなんでもないっておっしゃるんで空耳かと…」
「言えなかったの…」
　グレンはその言葉に少なからず衝撃を受けた。
「ごめんなさい、私…　言えなかったの。あのとき、本当は侵入者がいたの…」
　グレンは信じられなかった。
「ほ、本当なんですか？」
　リデルは頷いた。
「バルコニーの下から這い上がってきたの…　私を見つけてこう言ったわ。『お前がリデルだな。凍てついた炎はどこだ？』　私は怖くて…　思わず、悲鳴を上げてしまったの…」
「それじゃあ、俺が聞いた叫び声はお嬢様の悲鳴だったわけですか？」
「ええ、大声を出したらその場で殺されるかもしれないって分かってはいたの。でも、その人は何もしなかったわ。悔しそうに帰っていっただけ…」
「…それじゃあ、どうしてなんでもなかったなんて嘘を？」
「怖かったのよ！」
　振り返ったリデルは激情に駆られたように泣いていた。こぼれる涙を抑えようともしないその姿は、グレンにまた衝撃を与えた。
「まだその辺に潜んでるんじゃないかって…　姿を見た私を殺しに来るんじゃないかって…　誰かに喋ったら、その時に来るんじゃないかって…　私、混乱して…」
「リデルお嬢様…」
「だから、さっき食堂であなたと彼が話しているのを見たとき、すごく怖かった…　怖かったのよ…!!」
「!?」
　グレンはさっきの食堂を思い出した。まだ何か話したいことでも？　ここのご令嬢のことですので、食堂ではちょっと…
「まさか、さっき俺と話してたあのコックが侵入者だったんですか!?」
「違うって思いたかった…　でも、彼を見た途端、昨夜の恐怖がまたよみがえってきて、震えが止まらなかったわ。忘れるはずがないのよ…　こんな近くにいるなんて、私、耐えられない…！」
　グレンはショックのあまり何と言っていいか分からなかった。リデルは自分の両手に顔を埋めて肩を震わせている。
（…本当なのか？　いや、お嬢様がここまで追い詰められてるんだぞ？　俺を頼って素をさらけ出してるのに、俺が信じられなくてどうする？）
　しかし、何か引っかかるものを感じるのも事実だった。
（とにかく…　お嬢様に泣きやんでもらわないと）
「おーい、グレンー！　お嬢様と二人で何やってんだあ？」
　間延びした声に呼ばれ、グレンは思わずどきっとした。おそるおそる振り返ると、やはりそこにはカーシュがいる。
（やばいぞ!?　こんなところをカーシュ兄ぃなんかに見られたら…）
「あーっ！　グレンてば何したの!?　リデル様を泣かせるなんて信じられない！」
　グレンはその声を聞いて心底やばいことを自覚した。足下の方を見下ろせば、やはりそこにはマルチェラがいる…
「グレン…　てめえ、なんてことを…」
「誤解だ！　違うんだ、カーシュ兄ぃ！」
　グレンは指をぼきぼき鳴らしながら迫ってくるカーシュに押されてずりずりと後ずさった。
「…やめて、カーシュ…　これには、理由があるの…　私が全部話すわ…」
　リデルが嗚咽混じりに言った。カーシュはリデルの泣き顔を見て辛そうな表情になった。
（リデルお嬢様…？）
　グレンはやはり、訝しく思わずにはいられなかった。

（…で、結局カーシュ兄ぃとマルチェラには全部バラしたんだよな。今頃あのコックの人は…）
「おい、グレンはいるか？」
　大部屋に上級兵が入ってきた。グレンは寝転がっていたベッドから跳ね起きた。
「はい、ここにいますが？」
「蛇骨大佐がお呼びだ。すぐに行くように」
　それだけ言うと、上級兵はさっさと部屋を出ていった。
（蛇骨大佐が？　なんなんだ、今日は一体…）

「かけなさい」
　部屋に入るとすぐに、蛇骨大佐はグレンに言った。グレンはおずおずと示された椅子に座った。
「あの…　大佐」
「話は全部聞いたよ。昨夜のリデルの護衛はお前だったそうだな？」
「え、ええ…」
「残念だよ、グレン。お前は下級兵士だ。そのお前を娘の護衛という大役につけていたのはもちろん、娘と親しい間柄で信頼があったからに他ならない。しかし、今回のことでお前は娘を守れなかったことはおろか、その侵入者の手助けをしたと疑われてもおかしくない位置に立ってしまった。分かるな？」
　グレンは信じられない面持ちでそれを聞いていた。
「そんな、大佐…　信じてください、俺はそんなつもりでは…」
「分かっている。しかし、そんな失態をしでかした者が大役を務めていては、他の騎士達に示しがつかんだろう。お前にはリデルの護衛を降りてもらう。もちろん、リデルにも夜の外出は禁止させる。それで納得してもらいたい」

（心配だったけどうまくいったわ。グレンの疑いを別方向に向けさせる。あのコックが近くにいてくれたおかげで思いつくことが出来た。カーシュとマルチェラに話したのも正解だったわね。うまい具合にお父様に話が行き届いて、グレンを私から遠ざけることが出来た）
　グレンの問題がなくなったいま、リデルの頭の中には落書きのことはなかった。彼女を悩ませるのは、あの見ず知らずのコックに悪いことをしてしまったという良心の呵責だけだった。
（彼がスパイ呼ばわりされるのは確かに可哀想だけれど、仕方がないわ。この蛇骨館の中で彼以上にどうでもいい地位の人はいないし、まあ、運が悪かったと思って諦めてもらうしかないでしょう）

to be continued…
　
　