頭文字Ｌ

「分かんないんだよな」
「そうだな、俺にもさっぱり分かんねぇな」
　カーシュははっきり言って迷惑だった。引き続き幽霊事件の捜査を担当しながら、数日後に日程を定めた古龍の砦への遠征の下準備をしなければならない。スパイの件はあのコックの逮捕で片づいたというのに、こうしてグレンが彼の部屋を尋ねてきて、えんえんをそのことについて語る。書類の整理に追われる彼は、いい加減イラついてきた。
「だってさ、俺はお嬢様の話を聞いたときになんか引っかかるものを感じたんだ。『大声を出したら殺されるかもって分かってたけど』『私は怖くて、思わず悲鳴を上げてしまったの』ってとこ。でも、俺が思うにさ、あの落ち着いたお嬢様がそんな軽率なことするとは思えないんだよ。いくら怖くてもさ？　その点じゃ、昨日の夜に見せたあの激情っぷりも気になるんだよな」
「俺はなんでお前がこんな朝っぱらからこんなとこで語ってんのかの方が分かんねぇな。俺は忙しいんだよ」
「それに、一昨日の夜に俺が聞いた悲鳴は複数だった気がするんだよ。男の叫び声も混じってた、と思うんだ…　思い違いかもしれないけど」
「もしかして、俺の邪魔しに来たのか？　そうなのか？」
「それを考えると、あの逮捕したコック…　あいつが言ってたことの方が当てはまるんだ。あいつじゃない他の誰かが三人、崖を登ってお嬢様のいたバルコニーからこの蛇骨館に侵入しようとしてた。あいつは『崖をよじ登って上から飛び降りる変な遊び』って言ってたんだ。だからその三人は、侵入に失敗して上から落ちたんだと思う…　多分ね」
「嫌がらせじゃねぇんなら、あれだな？　お嬢様の護衛クビにされてやること他に見つかんねえのか。可哀想にな」
「そうすると、お嬢様の方が嘘ついてるってことになる。そんなこと、考えんのも嫌だけど…」
「だったら、仕事やるよ。隣のゾアを起こしてこい。だから頼むから俺の部屋から出てってくれ」
「でも、お嬢様の証言が感情的で曖昧だったのに対して、あいつの証言は鮮明過ぎるんだ。まあ、そこが怪しいっちゃ怪しいんだけど、侵入者の名前も知ってたし…　何だったかな、確かキッド、セルジュ、アルフとかって…」
「何！　セルジュだと!?」
　カーシュは書類を投げ出し、グレンに掴みかかるような勢いで詰め寄った。てっきりカーシュは何も聞いていないものだと思っていたグレンは、いきなりの行動にかなりびびった。
「ごめん…　出てく。ゾア起こしてくるから許して？」
「いや、違う、待て！　マジで待ってくれ！　お前今セルジュっつったか!?　そう言ったよな!?　な!?」
「なんだ、聞いててくれたんだ。でも驚くところが違うよ。俺はお嬢様が嘘ついてるかもってとこを強調したかったわけで…」
（なんてこった！　セルジュっつったらあの幽霊小僧じゃねえか！　それにキッドだと!?　セルジュの名前は計画上知ってる奴がいてもおかしかねえが、キッドとかゆーあの小娘のことは、俺かシュガールかソルトンか、報告を聞いた幹部しか知らねえ筈だぞ!?）
　カーシュは考え込んでしまった。グレンは訝しく思ってカーシュの顔を覗き込んだ。
「カーシュ兄ぃ？　俺だって分かってるんだよ？　今の俺の言動は騎士じゃないってさ。主たるリデルお嬢様を疑って、どこの馬の骨とも知れない皿洗いの言うことなんか真に受けてる。でも、俺にはそう思うだけの根拠があるわけで…」
（こいつは分かってねえのか!?　なんで犯人じゃねぇただのコックがそんな重要機密を知ってんだ！　俺にだってとてもそうは思えなかったが、あいつこそ本物のスパイじゃねえか！）
　グレンがまだ何か言い訳めいたことを口走っているが、カーシュにはもうそんなことは聞こえていなかった。
（“お願い、彼の取り調べはしないで。すれば必ず手荒なことになってしまうわ。自供するのを待って欲しいの。彼にだって、悪気はなかった筈だから…”）
　あのとき、リデルがカーシュに泣きながら言ったことだ。カーシュはそれに従った。しかし、確信がついた今、スパイに自供を求めることなど無意味に思えてならなかった。
（すみません、リデルお嬢様。でも、俺に待つことは出来ないんです。あいつがスパイなら、裏には組織があるに違い有りません。一刻も早くそれを見つけ出さなければ、お嬢様だけでなくこの蛇骨館全体が危険になる）
「つまりさ、回りくどい言い方したけど、結局俺はお嬢様を守りたいだけで…」
　グレンの言い訳を無視して、カーシュは部屋の出口に向かって歩き出した。
「グレン。お前も証言者としてついて来い」
「は？　何の？」
「俺の質問に答えるだけでいい。予定変更、今からあのコックの取り調べだ」

　リデルは考え事をするとき、決まって館内を歩き回った。夜に部屋から出ることを父から禁じられたし、こうしているのが一番落ち着く。それに、思わぬ発見もあるものだ。彼女がグレンのことについて考えていたとき、偶然にも階段を下りて行くカーシュとグレンの二人を見かけた。
　彼女は自分の動悸が激しくなるのを感じた。
（あの階段の先は…　地下牢だわ！　カーシュまで連れて！　まずいわ、これ以上グレンを彼に会わせるのは！）
　リデルは頭を急回転させ、言葉を選んで叫んだ。
「グレン！　そこにいたのね！」
　二人が立ち止まった。リデルはとりあえずほっとした。
「リデルお嬢様？」
　リデルは振り返ったグレンの元に小走りに駆け寄った。少し息を荒げて、ちょうど今まで彼を捜し回っていたように。
「よかった。やっと見つけたわ。今、忙しい？」
　グレンの隣にいるカーシュが代わりに答えた。
「丁度よかった。リデルお嬢様、あのコックの取り調べをする正式な許可を頂けませんか？　あの者が本当にスパイなら、後ろには組織の影がある筈なのです。自供を待つ余裕はありません」
（だめよ。そんなことをしたら、私が無実の彼に濡れ衣を着せたことがばれてしまうわ）
　リデルは少し困ったようにカーシュに笑いかけた。
「カーシュ。どんな人にも、良心はあるものなのよ」
（もちろん、私にもね）
　カーシュは訝しげな顔をした。リデルは構わず続けた。
「だから、無理に罪を着せないで欲しいの。自分のしたことの重さを理解して、心から改心することが、今の彼には必要じゃないかしら」
「しかし…　リデル様」
　リデルはカーシュにはそれ以上何も言わず、隣で釈然としない様子でいるグレンに向き直った。
「ところで、グレン。お父様が呼んでいるわ。すぐに来てもらえるかしら。大丈夫よね？」
「え、ええ…」
　リデルは踵を返して歩き出した。グレンもそれについて歩き出した。カーシュは一人取り残され、複雑な面持ちで去ってゆく二人を見守っていた。

　グレンがリデルに連れて来られたのは、蛇骨大佐の部屋ではなくリデルの部屋だった。メイドもいなく、リデルがドアを閉めると二人きりになってしまい、グレンはただならぬものを感じずにいられなかった。
「あの…　リデルお嬢様、大佐が俺のこと呼んでるんじゃないんですか？」
「気付いたと思うけど、嘘なの。こうでもしないと、あなたは私についてきてくれなかったでしょう？　二人だけで話せる機会をずっと待ってたわ」
　リデルはグレンにソファを勧めた。グレンはおずおずと座った。
「あの、話って？」
（彼はダリオには似ていないわ）
　リデルは思った。
「あなたは、私のせいで警備を降りることになったでしょう？　あなたにばかり非があるように言われているけど、本当は黙っていた私が悪いのよ。ずっと謝りたかったの」
「いえ、そんな、とんでもありません…」
（ダリオのことは話してはいけない。彼を冷静にさせてしまうもの）
「でも、そんなことは言い訳なの。ただ、あなたに会う口実を探していたんだと思うわ。気が付けばいつも隣にあなたがいた。あなたが側にいなくなることがこんなに辛いなんて、今まで私、思いもしなかった…」
　グレンがびっくりしたような複雑な表情をした。
（でも、ダリオのことがあるからこそ彼は罪悪感を感じずにはいられない。私と共犯になったという意識が、私を疑う心を押さえ込む筈だわ）
　リデルはグレンの頬に手を掛けた。
「お、お嬢様！　酔ってらっしゃるんですか!?」
「酔っていたとしても、きっと私は同じことをするわ。グレン、私にはあなたが必要なの…」
　リデルは更に顔をグレンに近づけた。
（彼を揺さぶる。正常な思考も出来ないくらい、徹底的に。出来るわ。やるのよ）
「お願い…　私を一人にしないで…」
　目を見開いたグレンの顔に、リデルの美しい髪がかかった。

to be continued…
　
　