頭文字Ｌ

　目が覚めても昨夜の悪夢は続いていた。聞き覚えのない声を聞いたときの焦燥、少女を突き飛ばしたときの感触、いつもと変わらない暗い海を見下ろしたときの恐怖…
（夢だったと思うのが一番いいわ。私が殺人を犯したなんて誰も思わないでしょう）
　しかし、鏡に映る自分の顔は、しでかした現実を突きつけるように血の気がなかった。
（なんて顔をしているの）
　リデルは急いで化粧台の引き出しを開けた。

「おかしいんだよな」
　グレンはぼやいた。朝の食堂は活気に溢れ、向かいで料理を頬張るカーシュの皿は空になりかけている。それが六皿目だと知っているグレンは深々と溜息をついた。
「カーシュ兄ぃの胃袋の方がおかしいかもな…」
「なんだグレン、お前全然食ってねえじゃねぇかよ。よこせ」
　カーシュがグレンの料理に手を伸ばしたが、グレンは寸前で自分の皿を持って後ろに避けた。
「やっぱりさ、夕べのお嬢様といい、今朝のニュースといい、関連性があるとしか思えないんだよな」
「お下げ致します」
　金髪の新人コックがグレンの持ち上げる皿を取り上げて行ってしまった。
「………」
　グレンはしばらく厨房に消えていくコックの後ろ姿を眺めていたが、気を取り直したようにカーシュに向き直った。
「だってさ、護衛はいいけど邪魔しないって約束なんだから、なんかあった時じゃなきゃリデルお嬢様のところに行けないだろ？　俺は確かに叫び声を聞いた気がしたんだ。だから行った」
「あーあ、勿体ねぇなぁ。今のほとんど食ってなかったろ」
「で、聞いたんだ。『何かあったんですか？』ってさ。そしたらお嬢様、すごく驚いて、真っ青な顔してこう言った。『いいえ、なんでもないの。少し寒いだけなのよ』」
「お前、腹減んねーの？　昼までもたねえぞ」
「おかしいよな？　あれが俺の空耳だったらこう言うはずなんだ。『どうしてそんなこと聞くの？』でも、お嬢様がなんでもないって言うから別に言及しなかったけどさ」
「おい、グレン」
「で、今朝の事件だろ？　おかしいこと続きでやっぱ俺としては…」
「おい、グレン！　聞けよ!!」
　グレンは腕組みをしたまま顔を上げた。カーシュが仁王立ちでこちらを見下ろしている。
「何？　そんなに俺の食い残しが勿体ないなら、さっきの皿洗いの人に聞いてみれば？　まだ捨ててないかもしれないし」
「違うっつうの！　さっきから聞いてりゃあお前、リデルお嬢様を疑うよーな事ばっかり言いやがって、それでも騎士か？　幼馴染みか!?　ダリオの弟か!!?」
　ダリオの名前を出され、グレンは一気に不機嫌になってカーシュに言い返した。「ありがとう、聞いててくれたとは知らなかった。でも理解力がないよな。俺はリデルお嬢様を疑ってるんじゃなくて、心配してるんだよ」
「だったら、何に対して心配してんだ、お前は!?　夕べあそこで何があったかも分かんねーくせによ！」
「だからそれを今考えてるんじゃないか！　大体カーシュ兄ぃは…」
「あら、喧嘩？」
　第三者の闖入に、グレンとカーシュはテーブル越しに掴み合ったお互いの襟首を慌てて離した。服装を正して無理矢理笑みを浮かべ、紳士的に応対する。
「お早うございます、リデル様。どうなされたんですか？　こんな時間に兵舎の食堂になどと…」
　リデルはカーシュに微笑み返した。
「早起きしたから、散歩していたんです。ついでにここにも寄ってみたかったの。二人がいるかと思って」
　たちまちカーシュはうっとりした。
（ああ、リデル様。こんな朝から俺に会うためにそんな念入りな化粧を？　今日は特別にお綺麗だ…）
　グレンはカーシュを見て思った。
（カーシュ兄ぃ、ありゃ絶対『今日は特別にお綺麗だ』とか思って飛んじゃってる顔だな。もう何言っても俺の話は素通りだ）
　グレンはリデルに向き直った。
「そういえばリデル様、今朝の報告知ってますか？　テルミナの街中の壁に“L knows nothing” ってペンキで殴り書きされてたそうですよ。昨日はそんなのなかったですよね？」
（なんですって!?）
　リデルは耳を疑った。
「何!?　知らなかった、俺ん家は無事なのか？」
「ああ、カーシュ兄ぃん家？　すごいらしいよ」
「それは迷惑な話だわ」
　リデルは平静を装い、気を取り直して言った。
「カーシュ、グレン。暇な時間があったらその落書きを消すのを手伝ってあげてください。出来れば今日は騎士団みんなで行くといいでしょう」
「…そうですね、検討してみます」
　カーシュの放心したような返事を聞くと、リデルは食堂を出ていった。
　グレンだけが、彼女の姿が消えた方向を見ながらずっと考え込んでいた。

to be continued…

　