頭文字Ｌ

（リデルお嬢様は俺に嘘をついてる）
　グレンは確信した。だからこそカーシュの目の前で容疑者に今朝の落書きの内容をばらしたのだ。彼はもはや疑いの感じられないあのコック見習いを自由にしてやらなければならないという気負いを感じていた。
（俺も馬鹿だな。本気でお嬢様が俺を好きになると思ってるのか？　あんなに兄貴を愛してたのに。冷静になってみろ、矛盾だらけじゃないか）
　彼は一息ついて考えをまとめた。
（俺は一昨日の夜、バルコニーの外で複数の叫び声を聞いた。お嬢様は“私の悲鳴”だと言った。異常なまでの激情ぶり。兄貴が死んだって聞いても人前では絶対泣かなかったリデル様がだ。俺に意識的な態度を取った。俺はリデル様が俺のこと好きなんじゃないかって浮かれて、他のことは考えられなくなった。間違いない。お嬢様は俺が疑ってるって分かってたんだよ。だから必死になって、あんな演技してまで俺の注意を他に向けようとしてたんだ）
　グレンはコックの言葉を思い出した。反論する暇があったと思ってるんですか？　彼を取り調べないように命じたのはリデルだ。もう一つ思い出す台詞があった。崖をよじ登っていた三人が上から海に飛び込むなんてびっくりしました。その時崖の頂上たるバルコニーにいたのもリデルだ。
（新しい落書きのおかげで目が覚めたよ。俺には今ひとつ分かんないけど、カーシュ兄ぃは落書きの犯人イコール侵入者だと思ってる。だったら、ずっと牢屋にいたあのコックが出来たわけないじゃないか。あいつは本当に何もしてないんだ。リデルお嬢様が俺の目の前で造ってみせた架空の犯罪者なんだよ。だから…）
　グレンは立ち上がって歩き出した。
（あいつを侵入者に仕立て上げた理由があるはずなんだ。一昨日の夜、お嬢様が本当にしたことは何なのか。もうグダグダ考えんのにも飽きたな。勇気を出して本人に直接聞いてみるんだ）

　イシトは誰にも見られていないことを確認してから自分の独房の鍵を開け、中で横になってぐっすり眠っている看守のコック服を脱がしにかかった。この看守は取調室で速記官を務め、イシトを独房まで連行してそのまま牢番に落ち着いた男である。イシトの動作は正確かつ迅速で、看守の格好をアカシア兵のものに、イシトの格好をコックに、瞬く間に戻していった。
　看守を独房の外に戻して自分は中に戻り、内側から鍵を掛け直しながら彼は考えた。
（看守が犯罪者の手の届くところで寝てはいけないな。まあ、ものの１０分てところだったろうか？　それに、仕掛けたのは一つだけだ。私がずっとここにいたことを疑う者はいないだろう）
　イシトは鉄格子の間から手を伸ばして、床に座り込んでまだ眠っている看守の元に鍵を戻そうとした。
（それにしても、随分強力な睡眠薬だな。わざわざパレポリから持ってきたかいがあった―）
「おーいご苦労さん、交代だぜ」
　イシトは鍵を看守の上に放り、慌てて腕を引っ込めた。地下牢の入り口から別の兵が近づいてきた。
「まったく、カフェイン中毒野郎が寝てんじゃねえよ！」
　交代の兵は寝ている看守を蹴り起こしにかかった。イシトの独房の目の前である。当然、交代の兵も不必要に近くにいるイシトに気が付いた。
「おい、何見てる。もしかして、そこからこいつの鍵を盗んで脱獄しようとしてたんじゃないだろうな？」
　イシトは思い切り首を横に振ってみせた。
「と、とんでもありません。そんなことをしたら本当に有罪になってしまいます…」
「じゃあ、なんでそんな手の届きそうなところにいるんだ」
「それは…　彼のいびきがうるさかったので…　私、不眠症気味なんです」
「それなら我慢して起きてろ！　この犯罪者が、自分の立場が分かってるのか!?」
「は、はい…　すみません」
　イシトは独房の奥に引っ込みながら思った。
（脱獄？　惜しいな、私がやったのはもう少し違ったことだ）
　交代の兵にやっと起こされ、看守が目を覚ました。まだ眠たそうによろよろと歩いて行く彼を見ながら、イシトが思うことは先程の取り調べだった。
（先刻の取り調べを思い出す限り、カーシュが私の容疑を決定づける証拠を手に入れたわけでもなく、私を陥れる策を思いついたリデル嬢に命令されたことでもない。私を疑うカーシュ自身の意志だ。彼が、崇拝するリデル嬢を裏切ってまで私を怪しいと思うには根拠があるに違いない。私がグレンに渡した情報の中で、私がカーシュから聞かされていない情報は…）
　彼は目を閉じ、頭の中で取り調べを再現した。
（名前だ。キッド・セルジュ・アルフという三人の。切り札を最後まで取っておくということは、言い換えれば、カーシュがその三人の名前に固執しているということだ。つまり、彼が私をスパイと信じる根拠は、私がその三人の名前を知っていたから。そうすると、その三人の存在は随分な重要機密ということになるな。私が無罪になる上でも有力な情報かもな）
　イシトは冷たい石の床に横になった。後は待つだけだからだ。彼に落書きの内容をバラしたグレンと、自分自身で仕掛けた罠。切り札は最後まで取っておくだけでなく、いくつも持っておくべきだと彼は確信していた。

「うわあああ！　痒い！　痒みが止まんねえよおおおおおっっ!!!」
　側で騒ぐ兵をうるさく思い、カーシュは隣にいる部下に一応尋ねた。
「おい、なんで騒いでんだ？　あいつ」
　部下は面倒臭そうに答えた。
「薬アレルギーらしいっスよ。酔い止め飲んだだけで蕁麻疹できるらしいっス」
「かーっ！　あんなにコーヒーがぶ飲みするくせにか？　カフェインは大丈夫なのかよ、カフェインはよ」
「本人、コーヒーは別格だって言ってましたっス」
「わけわかんねえ理屈だな。おい！」
　カーシュは騒いでいる兵を呼び寄せた。先程の取り調べのとき、カーシュの隣で速記をしていた男だ。彼は全身を掻きむしりながらカーシュに返事をした。
「は、はい…　ううううううっ!!」
「お前、アレルギーのくせに薬飲んだのか？
「い、いいえ…　うううううううううっっっ!!!」
「じゃあなんでそんなに痒いんだよ」
「わ、わかりません…　飲んだ覚えなんかないのに、なんか…　ううう、トリクロロエタノールとかいう薬が…　うう、私から検出されたらしいんです…　うああああああッッッ！」
（トリクロロエタノール…？　催眠剤か。そんなに強い薬じゃねえが…）
　カーシュはふと思い出した。先程の取り調べで容疑者のあの男が言った言葉だ。
（“睡眠薬です…　不眠症気味なので、持っていないと落ち着かないんです”）
　カーシュは隣で面倒そうにしている兵に尋ねた。
「おい、お前鑑識だったっけ？　さっき粉薬みてえなの調べたろ。あれは何だった？」
「ああ、あれっスか？　クロラル・ハイドレートっス。医者とかがよく使う睡眠薬で、結構強い奴っスよ」
「それよ、飲むと体内で代謝とかされるか？」
「ええ、確か極微量のトリクロロエタノールになるはずっス」
　それを聞いたカーシュは溜飲の下がる思いだった。
（やっと見つけたぜ、あいつの弱点を！　あのコックは取調室から連行されてそのまま牢番についたこいつに睡眠薬を飲ませたんだ。それで何をしたか、それを調べて証拠を掴めばあいつは確実に有罪だ！）
　カーシュは思い出していた。散々言い逃れをされて、寸前で尻尾を掴み損なうあの悔しさ。彼は自分の考えが気に入り、少しだけ笑った。
（いや、調べるなんてめんどくせえことはこの際ナシだ。いい加減、そーゆーことばっかりで疲れたぜ。直接本人に聞いてやろうや）

「ねえ、ロールシャッハ・テストって知ってる？」
　ツクヨミは相変わらず楽しそうだった。また前触れもなく部屋の中空から現れた彼女に不機嫌なのを悟られまいと、リデルは無理に明るく振る舞った。
「ええ、紙にインクを垂らして何にでも見える図形を作り、それが何に見えるかで心理状態を見極めるテストよね？」
「あったりー♪　何にでも思えるものって、はっきりした答えがないでしょ？　だから、結構その時の気分に左右されちゃうんだよね。それが引き金になって不安を呼んだり、思い込みにつながったり…」
「つまり？」
　リデルは知らずのうちに神経を尖らせていた。
「な・い・しょ！　自分で考えなよ！　じゃあね♪」
　ツクヨミはまた唐突に宙に消えた。リデルは落ち着きを取り戻そうと、深く嘆息した。
（あの子の言っていることには意味がなさそうであるわ。きっと、あの落書きのことを言ってるんでしょう。確かに、“L knows nothing”と“R must know everything”の二つの文は、別に私の名前を無理矢理当てはめなくてもどうとでも読める。つまり、意味をこじつけて考えるのは無意味なことだということね）
　リデルは決心をつけてドアノブに手を掛けた。
（だから、あの文の意味を考えるのはやめる。今私が考えなくてはいけないのは、あのコックの嫌疑を決定的にする証拠をどうやって周囲に信じ込ませるかだわ）
　日が沈む。もうすぐ夜になる。そうなれば彼女の自由は一時的に終わる。それを永久のものにしないため、リデルは更に一歩を踏み出す。

to be continued…
　
　