パレポリアン・タブロイド3

「パレポリ市警のレーゼマン警部補です。小火の件でお伺いしました」
　数分後、すっかり落ち着いて従業員以外誰もいなくなったナイトクラブ“トルバドールズ・ハイダウェイ”にて、私は安っぽいスーツを着て訓練兵の論文採点用の眼鏡をかけ、白衣を着て鑑識キットを持った“8（アハト）”を従え、店主のスヴェトラーナ・クアジンスキーに向かって偽物の警察バッジを掲げていた。
　スヴェトラーナは“2（ツヴァイ）”が評したとおり、亜麻色の巻き毛と薔薇の香り、桃型の尻とメロン大の胸を赤いドレスに包んだ長身のラナケス人だった。私の妻にタイプが似ている――隙のない美貌に垣間見える気位の高さ。それを弱点としないだけの柔軟性。男は大抵弱いものだと思っていて、ありもしない才能で自分を印象付けない人間だけに一目置く価値があると信じている。
「小火ではなかったみたいよ、警部補(ヘル・ロイトナント)さん。消防士さんたちが言っていたのだけれど、頭のおかしい誰かが店の外でバーベキューをしていたようなの。怒る気も失せたわ、お引取りになって結構よ」
　彼女はラナケス訛りのないきれいな標準語で従業員たちに閉店の準備を促した。おっとりと低く掠れ、耳に心地いい。コック・バーテンダー・ウェイトレスたちがばらばらと持ち場に戻っていった。私はゆっくりと歩き回って店の内装を値踏みしながら、
「そうご希望でしたら調書だけで簡単に済ませることもできますが、あなたは一晩に何百という客と従業員の命について責任を負っています。危険の再発を避けるためにも、犯人は捕まえておかなければいけませんよ。ただでさえ、スーパーマーケットのストライキなど、最近何かと物騒ですからね、関連性も見逃せません」
「わたしが従業員を低賃金で苦しめてるってこと？」
「有名な儲けどころに飛び火したっておかしくないと言ってるんですよ。繁盛しているんでしょう？」
元娼婦は艶然と笑った。
「ええ、そうよ。この辺じゃいちばんの流行りのナイトクラブ。週末には行列ができるし、各界の著名人も毎日のようにお忍びで遊びに来るわ。入場料はたった 800ギルだし、ゲストリストに載ってれば無料で入れる良心的なお店なの。従業員は時給1000ギルからはじめて、能力次第で昇給も正社員昇格もあるし、チップは全部その場でポケットに入れていいの。どう、わたしの店なんか狙うより、角のビッグ・カウアイ・バーガーに攻め込むべきじゃなくて？」
「自信がおありなんですね」
「根拠のある自信がね。何か飲み物はいかが、レーゼマン警部補と…」
　私はうろうろと鑑識キットを運び歩いている“8（アハト）”に、地下を調べてこい、と合図を送った。
「鑑識のケンプラー部長刑事です。私だけボトル入りの水を」
　スヴェトラーナはバーテンダーに酒を作るよう命令し、短いグラス二つに生(き)のスコッチを入れて持ってきた。
「お酒が好きなら遠慮しなくていいのよ、警部補さん。ジャケットの裏からフラスクがちらっと見えたわ。正直言うと、少し参ったわね。今日の騒ぎで客を大勢失ってしまったでしょ？　明日からの営業に差し支えるわ。うちに来なくたって、遊ぶ場所はこの界隈にはいくらでもあるもの」
　私はグラスを一つ受け取り、
「でも、ゲイブリエル・レガットが他のロック・スター達を招いて誕生日パーティをするのはここだけだし、皇族がお忍びで遊びに来るのもここだけだ。それを売りに宣伝すれば、客なんかすぐ集まるのでは？」
　彼女はスコッチをすすった。
「よくご存知ね。その噂、そんなに有名なのかしら」
　私はかまをかけるつもりで作り話をでっち上げてみた。
「エカテリーナ皇妃がたびたびこの店に顔を出して、パレポリ国内のアカ派をこの店に集めてストライキの指揮をとっている、という噂とか。それを革命に転じて、パレポリの内部に混乱が起きているうちにラナケスから戦を仕掛けようとしている、という噂も」
　美女はまた笑って、フロアの奥にある一番いいソファを私に勧めた。
「わたしったら気のきかないホステスね、お座りにならない？　その噂を流した人物は素晴らしい想像力がおありだわ、小説家になることをお勧めするわよ。もしかしてあなたなの、刑事さん？　今考えついたジョークをただ言ってみただけ、そうでしょ？」
　図星だったが、「いいえ、署内ではその噂でもちきりですよ」
　スヴェトラーナは私の隣に腰掛け、
「あなたの声ってとても素敵。低い響きで、独特の深みがあるわ。聞き覚えがあるの――消防署に電話したときに応答した人。あなたじゃないの？」
　また図星。「実家で電話番するとよく親父と間違われますよ。そして、あなたは10年かそこら前に3日でおつとめを終わらせた娼婦に似てる」
「だったら、皇妃さまに似た人がいても仕方ないわ。ついでに言うと、あなたの顔はわたしが昔大ファンだったボクサーにそっくりなの。ねえ、眼鏡をはずしてくれない？」
　断るのも変かと思い、私は眼鏡をはずしてやった。その私の顔に、妖婦が手を這わせてきた。
「すごい偶然。ほくろの位置まで同じだわ。マテウス・ブライチャートっていって、この辺じゃちょっとしたスターだったのよ。一度だけ彼と寝たことがあるの ――13年前の引退試合の後、控え室でね。花束やプレゼントを持って押しかけてた女の子はたくさんいたけど、彼はその中からわたしを選んだの。最高だったわ。今じゃその人、軍隊に入ってすごい玉の輿に乗ったって聞いたけど…　あら、刑事さん、飲まないの？　お口に合わなかったかしら、ボトルの水をお持ちしましょうか？」
　私は負けるものかと気勢を張った。
「いいえ、とりあえず調書を先に取らせていただきます。ここにサインをしてください」

　私がニセ消防署の電話番だと見破られたのは軽いジャブ程度の衝撃だったが、私の正体をスヴェトラーナが知っていたことはボディブローなみにこたえた。私はもちろん、試合の後に商品がわりに寝た尻軽女たちのことなど誰一人として覚えていない。
　地下室から私の鑑識役“8（アハト）”が戦利品をかっぱらってきた。彼曰く、地下室は10畳くらいの箱部屋でラウンジ状になっており、その中心にあった赤いヴェルヴェットを被せたソファの上にこれが落ちていた――外国の宝飾ブランド“ハリソン・ウィンスリー”と刻まれた、もし本物なら1億ギルは下らないブルー・ダイヤモンドの男物の指輪。掠め取らずにちゃんと私のところへ持ってきたことを誉めてやると、元こそ泥はこう言った。「まずは自慢してから」
私は悪党“8（アハト）”を連れて愛車のメルセデスに戻り、無線を取った。
「“5（フェンフ）”、エカテリーナ王妃はどこだ？」
　“8（アハト）”が“スナッチャー・411”のスイッチを入れ、“5（フェンフ）”の視点をモニターに映し出した。私の一番上等な通勤服に身を包んだ伊達男は、私の家にほど近い海辺の高級住宅地にいた。
『隊長、こちら“5（フェンフ）”。ウェスト・ファリア通りの11724番地です。エカテリーナ皇妃らしきフロイラインは１ブロック向こうでタクシーを降り、人目をはばかるようにこそこそとこの家に入っていきました。隊長のお宅みたいなすごい豪邸です』
「表札は？」
『レガットです』
　ゲイブリエル・レガットだろうか。皇妃の愛人は大物ロック歌手、写真週刊誌向きの極上のスキャンダルねた。
「上出来だ。戻っていいぞ」
『アイ・サー』
　私は他の隊員たちにも教練所のオフィスに戻るように伝えた。15分後に私と“8（アハト）”が戻ると、“3（ドライ）”を抜いた全員が疲れと眠気でへろへろになった顔を揃えて待っていた。
「隊長、お疲れ様でした。ギリアン中佐より、参謀司令部が『黒き風』のために一部屋空けてくださったので、これからはそこを執務室にするようにとのお達しです」“10（ツェン）”が張りのあるテノールでファックスの通達を読み上げた。「あー…　そうだな。引越しは明日の午前中にやろう。今日は疲れただろ？　とりあえず解散だ、各自明日の正午までに今日の記録をまとめておくように」
　全員がその場にへたり込んで、誰彼ともなく笑い出した。昨日までただの雑兵だった彼らにとっては初の特殊任務だったし、午前2時だったので、ナチュラル・ハイになるのも無理はなかった。
　帰る前に“3（ドライ）”に電話したら、哀れなムスタファは我らがプリマドンナ“4（フィーア）”がロシアン・ルーレットをやらかして以来、本物の貝のように口を閉ざし、一言も発することはなくなってしまったらしい。刑務所付属の医師の診断ではショック性の失語症だという。私は“3（ドライ）”にも帰って休むように言い、“1（アイン）”を連れて私のメルセデスまで戻った。
「旦那様、お疲れのようですので私が運転します」
レニンシュタール子爵令嬢家の敷地内にある使用人棟に住んでいる“１（アイン）”が運転席に乗り込んだ。彼は通勤時にタクシーになる役目をクロエから仰せつかっているが、私は最近彼のアキュラを乗車拒否して自分で自分のメルセデス・ロードスターを運転することにしていた。安全第一――典型的なA型男は車酔いもできないほど荒っぽい運転な上に追い越されると追い越し返す癇癪持ちで、事故こそ起こしたことはないものの、たびたび警察にスピード違反チケットを切られて何度か仕事に遅刻したこともある。もちろん、私も道連れにして。
「いや、疲れてるっつーか…　まあ、そうだな、任せるよ」
　実はとても疲れていたので助かった。“1（アイン）”はイグニションに鍵を差し込んで発車させた。カー・ステレオから流れるゲイブリエル・レガットの感傷的なラヴ・バラードが耳障りに思えたので、私はチューニングをいじり、交通情報のチャンネルに合わせた。
「旦那様が歯切れ悪いとは、よほどのことがあったのですね、スヴェトラーナと」
「なんでスヴェトラーナ限定なんだよ」
「旦那様が何かお悩みの時は女性関係と相場が決まっていますので」
「商売女となんか付き合いがあるわけねえだろ、“2（ツヴァイ）”じゃあるまいし」
「付き合いはなかった、でも一晩の関係はあった。旦那様は覚えていなかった、でも彼女は焼けぼっくいに火、違いますか？」
　こいつのバリトンも耳障り――私は窓から放り出したい衝動と闘った。
「何とでも言えよ天才、クロエの耳に入らない範囲でな」
「図星でしたか。これから彼女の扱いは“5（フェンフ）”に任せるといいでしょう。さもないと、私が奥様に報告しなければならない事態に陥りかねません」
「自分を大切にしろよお目付け役、報告なんかしたらおまえの首こそどっかに飛ぶぜ。一蓮托生同士、せいぜい仲良くやるのが筋ってもんじゃねえのか相棒？」
「そうやって旦那様に手懐けられた歴代お目付け役を奥様は次々解雇なさいました。私は先人の愚轍を踏まぬよう心がけています」
「俺って信用ねえんだな」
「あるとでも？」
「思いたかったよ」
「夢は自由に見てくださって結構です」

　自宅から教練所までは30分の距離だが、これからダウンタウンにある参謀本部にオフィスが移るので20分をみるだけでいいだろう。とはいえ、方面が正反対になるだけで、海岸沿いにはしるハイウェイを通ることには変わりない。通勤時の大渋滞の、あの癌が発病しそうになるストレスは毎朝変わらず体験することになるだろう。
　午前2時30分。“1（アイン）”は私を母屋に降ろし、今日朝7時に迎えに来るからと言い残して使用人棟へ帰っていった。
母屋の鍵は閉まっていなかった。私はあとで無用心を咎めようと思いつつ我が家の扉を開いた。
「敵か味方か!?」
　凛とした少年の声が私を出迎えた。私は玄関脇のアンティーク花瓶に顔だけ隠し、「敵だ！」と答えた。
「お帰りなさい、敵！」
パジャマに上掛けを羽織ったイシトが、磨きぬかれた大理石の廊下に置いてある、これまたぴかぴかの女神像の後ろから小走りに寄ってきた。私は自慢の息子を抱き上げ、
「ただいまイシト、こんな時間まで起きてるのがばれたら母さんに大目玉を食らうぞ」
　イシトはいたずら小僧そのままの笑みで、
「眠れなかったんだもん。僕、あともう少しで“6（ゼクス）”になるんでしょう？　みんながお祝いの準備をしてくれてるんだって。でも僕には秘密なんだって。だから僕、みんなが寝てる間にスパイしてるんだ。ねえ、僕もう立派なスパイだよ。お父さんの仲間に入れてくれる？」
　私はイシトの部屋に続く階段を上がりながら苦笑した。
「そうだな、スパイはちゃんと部屋の掃除ができなきゃなれないんだ。今日はちゃんと本棚の整理をしたか？」
「ううん、だって女スパイ“ブラッディ・ローズ”のご本にはそんなこと書いてなかったもん」
「本はあんまり長いと重たくなるから、たびたび省略されるんだ。本当は“ブラッディ・ローズ”だってちゃんと本棚の整理をしたんだよ。明日の夜一緒にやろう、な？　今日はもう寝なさい」
「やだ。マルグレーテとエリザーベトお姉ちゃんが、僕のプレゼントに女の子が着るようなドレス用意してるの見ちゃったんだ。二人をとっちめてやらなくちゃいけないんだよ」
　どうやら、娘のマルグレーテとエリザーベトの、イシトをお人形さん代わりに着せ替えて遊ぶ悪癖はまだまだ健在らしい。私はイシトの部屋に入って彼をベッドに寝かせた。勇ましくいきり立とうとする息子の目がうとうとと垂れ下がっていた。
「とっちめるって、どうやって？」
「ドレスを隠すんだ。ラインハルトに頼んで捨ててもらうの。ラインハルトは“１（アイン）”で、僕より年下だけど、僕の一番の味方なんだ。内緒だよ」
「もったいないじゃないか。学校に持っていって、好きな女の子にあげなさい」
「女の子なんて嫌いだもん。…僕、眠くなっちゃった」
　そう言うなり寝息をたてはじめた息子に布団をかけてやり、私は少し心配になった。姉二人のせいで彼が女嫌いに育ってしまったらどうしよう。イシトが私の幼少期にちっとも似ないのは、深窓のお坊ちゃんであるせいもあると思うが、何より私不在の時間が多いせいであることは間違いなかった。
　この仕事が終わったら、もう少し一緒にいる時間を増やそう。『黒き風』を解散、または隊長を辞任し、戦術と戦略の授業で教鞭をとり、家で訓練生の論文を採点するマテウス先生に戻らなければならない。おっかないギリアン総督閣下がなんと言おうと、また一家離散の危機だと人事部に泣きつけばどうにかなる―― そこまで考えて、私にも両親になかった女々しさがあるのだと気づいた。誰に似たのやら。

「おはようございます、あなた」
　朝6時。通勤服のままサンルームのソファで爆睡していた私を妻が起こしに来た。クロエ・レニンシュタール、34歳、3児の母、貴族の系譜を受け継ぐプラチナ色のブロンドには白髪一本なく、生まれつきの美貌には金の力でさらに磨きがかかっている。私は朝の日差しと眠気にかすんだ麗しの美女のネグリジェの裾を引っぱった。
「起きたくないんだ、あと30分だけ一緒に寝てくれ」
「だったら、夕べはなぜ寝室にいらっしゃらなかったの？　いつからソファで寝る夫になり下がったのです。あなたの帰りがどんなに遅くなろうとも、わたくしはいつも寝室のドアは開けているではありませんか。それより、わたくしに何か報告があるのではなくて？」
　朝から仕事の話は勘弁して欲しかった。私は瞼を閉じたい誘惑と闘いながらソファの上に起き上がった。変な姿勢で寝たせいで妙に全身が凝っていることに気が付き、伸びをしてからこきこきと肩を鳴らした。
「こんな美人の待つ寝室のたった（！）50メートル手前で力尽きるなんて情けない。俺ももう若くないな、こんな報告でどうだ？」
「そんなものでは誤魔化されません。ギリアン中佐から夕べお電話をいただきましたわ。あなたが少佐に昇進して、参謀本部に召し抱えられることになったとおっしゃってました。お仕事の内容もお伺いしましたが、随分危険なことをはじめられたようね。教練所への転属が受理されてから4ヶ月も経っていないではありませんか。わたくしには何の相談もなしですの？」
「総督の命令だったんだ、逆らったら食い殺されるよ」　私は妻の豊満な肢体を引き寄せ、「おまえにだったら是非食い殺されたいね、今ここで。いいだろ？」
「ばかなことをおっしゃってないで、早くお着替えになって。メイドたちが掃除に来るわ」
「いいね、たまには見物人がいるのも」
「早くしないとラインハルトが迎えに来るわ。お風呂もまだなんでしょう？」
「そうだな、風呂場も捨てがたい」
「あなた！　ご出勤の準備をなさってくださる？　さっさとその変なお仕事を終わりにして、イシトの誕生日にくらい休暇を貰って。それまではお預けですわ」
　妻はくるりときびすを返して寝室の方へ歩き去ってしまった。私は彼女の麗しい後ろ姿をぼけっと眺めながら、せっかくその気だったのに、と少し残念になった。
　気が付くと、眠気は醒めていた。

　街外れの要塞から市街地の巨塔へ。どちらもオズの国であるという点では変わりはないが、新しい執務室の情報処理設備を一目見るなり、“8（アハト）”が目を輝かせた――「すごい！“スナッチャー・411”が1000個束になったって勝てないや、これで僕は世界を支配できる！」
　ストライキはまだ鎮まってはいなかった。それどころか、規模的には昨日よりひどくなったと新聞で報じられていた。
　私は隊員達に引越しを任せ、正午には戻ると言い残して参謀本部を後にした。来なくていいと言ったのに、やはり“1（アイン）”はついて来た――私が「会っておきたい人物がいる」としかみんなの前で言えなかったからだ。女ではないと言っているのに信じてくれない。軍服を着た人間を連れていくわけにいかないと言ったら、彼は“5（フェンフ）”の私服を借りてまでついて来た。ほとんど意地だとしか言いようがない。
　私は車を自宅方面へ走らせ、浜辺のプロムナード近辺でハイウェイを降りた。パレポリ・ダイニング・ガイド誌で眺めのいい店ランキング万年一位“トラットリア・グーフィー”に私のメルセデスを停めると、駐車場に防弾装甲つきの黒いベントレーがあるのが目に付いた。
　レストランはごった返していた。“ビーチ散策のあとはグーフィーのお店で軽食を”の放送を終えたラジオのスタッフが、まとめた機材を押しながらわきの出口へ向かっていることろだった。私は白いシャークスキンのスーツを着た小柄なマイノリティの男、グスタフ・シュトラウスが、ドワイト・ヤヘルカともう一人のボディ・ガードに挟まれて、ブースの中の半円形のソファに座っているのを見つけた。隣のテーブルには一人ぽつんと座った男が絶えず店内に目を走らせていた。横の椅子には広げた新聞が置いてあった――お得意の45口径自動小銃、エレファント・クリップつきのマグナム弾20連発が隠れているはずだ。
　私はそっちへ向かった。殺し屋の手がパレポリ・タイムスの下に滑り込んだ。“比類なきグーフィー”が気づいて微笑みながら立ち上がり、彼のボディ・ガードたちも揃って笑いを浮かべた。
「大将、しばらくぶりだな！」　私は片手を差し出したが、グーフィーはそれには目もくれず、両手で私を抱きしめると、背中を2度ほど叩いた。背後で“1 （アイン）”が困惑しているのが感じられた。殺し屋に睨まれて身動きが取れないのだろう――だからついて来るなと言ったのに。
「景気がよさそうじゃないか、兄弟。後ろの若いのはあの雑草売りの小僧じゃないようだな、おまえさんとこのかみさんの鉄砲玉か？」
　私は大笑いするふりをして、
「グーフィー、あんたは相変わらず天才だよ。こいつは女房の腰巾着でね、ひどい癇癪持ちだからあんまり物騒な物を向けないでやってくれないか。みんな元気でやってるのかい？」
　グーフィーの左隣にいたドワイト・ヤヘルカが口を開いた。
「あんたほどじゃないよ、マーティ。あんたみたいな男が貴族と軍隊なんかでよくやってられるもんだ。そんなにいい女ばっかりなのかい？」
　私は“1（アイン）”の視線を気にしつつ、
「ドワイティ、あんたは愉快な男だよ。その答えは新作のネタになるのか？」
「一週間後にはな。ボスがココナッツ・クラブの喫煙室でしゃべる小噺用に夕べ一本書いたばかりなんだ。『ビジネスはどうです？』って聞いてみな」
　グーフィーに向き直ると、彼の抜け目ない目が私を品定めしていることに気づいた――その目が私の脇下の38口径リヴォルヴァーのふくらみを捉え、メイドが磨いてくれたフローレンツォ産の靴のつま先へと動いた。私は気づかないふりをして、「グーフィー、ビジネスはどうだい？」と尋ねた。
「商売(ビジネス)ってのは、おれの紳士洋品店のことか？　今度な、ケーキ・パーラーとタコス屋台も始めたぞ。それに映画への投資だ。ショウより素敵な商売はないってな(ゼアズ・ノー・ビジネス・ライク・ショー・ビジネス)」
「いや、事業(ビジネス)のことさ」
グーフィーはにやりと笑って、背広の襟を撫で付けると、ボタンホールにさしたばらの花を嗅ぐふりをした。
「ある男がやってきておれにこう言うんだ。『グーフィー、商売(ビジネス)はどうだい？』で、おれはこう言ってやる。『男ってのはギャンブルをやり、金を借り、女と寝るもんだ。お偉いさんはドンパチが好きで、金持ちはホワイト・パウダー・エアラインで舞い上がるのがお好きと決まってる。ビジネスは順調だよ』　すると男が言う。『じゃあおれを雇ってくれないか。パイロットの免許だったら持ってるぜ』　おれは注射器を持ってきてこう言うんだ。『そりゃあいいや。右腕を出しな』」
　グーフィーは大仰なしぐさで帽子に手を伸ばし、十八番のジョークを語り終えた。ボディ・ガードたちがテーブルをばしばし叩きながら身体を震わせて笑った。レストラン中の堅気の客達が何番煎じかわからないその芸に拍手を贈った。私も大笑いするふりをしてやったが、背後の“1（アイン）”が笑うに笑えず顔を引きつらせていた。
「グーフィー、あんたも面白い男だな」
「そうかい？　じゃあなんでそっちの若造は笑わん？　ドワイト、リヒト、ちょっと外せ」
　お調子者の用心棒たちは腹を抱えながらブースを出て行った。彼らのいた位置に私が座った。“1（アイン）”は隣のテーブルでマグナム20連打の殺し屋と顔を突き合わせておとなしくしていた。グーフィーが口を開いた。
「新しい獲物が欲しいか何かの依頼かだな、そうだろ？」
「いや」
「この前おまえさんにくれてやったブツは役に立ってるか？」
「8万ギルで売れたよ、グーフィー」
「詐欺師め。おまえさんみたいな悪党は貴族に婿入りするまでもなくマハラジャになれるだろうよ。脂肪で動脈が塞がっちまうくらいのな。今日の目当てはなんだ、はっきり言ってみろ」
　グーフィーはギャルソンを呼び止めて私のためにブラディ・メアリーを注文した。ギャルソンは血相を変えてバーの内側に飛び込み、目にもとまらぬ速さでドリンクをシャイクして、飛び跳ねるように戻ってきた。ギャルソンの汗が浮いているようで飲む気になれなかった。
「知っておきたい奴がいるんだ、ちょいとわけありでね。スヴェトラーナ・クアジンスキーって女は知ってるだろ？」
　グーフィーは腰のくびれた砂時計の形を宙に書いて、
「成り上がりのパンパンだろ、桃とメロンを合体させたような。昔はおれも世話になったよ」
「そいつが誰の元で客を取ってたのか知りたいんだ」
「熊は森の中でくそをするのか？　この街はおれの縄張りだろうが。なんだってそんなことを聞く？」
　私は少し深呼吸した。厄介なことを言い出さなければならないので、少し緊張して手のひらが汗ばんだ。
「…あんた、スヴェトラーナがとっ捕まったときにいくら保釈金を積んでやった？」
「保釈金なぞ積まん。市警のお巡りの拳銃や手錠を誰が買ってやってると思ってるんだ。だいたい、おれはお縄になった奴はトイレに流すことにしてるぞ。何を喋るか分かったもんじゃないからな」
　私は少し考え、
「彼女が2年と10ヶ月前に自分の店を出しただろ。あれもあんたのビジネスの一環かい？」
「あの女がおれのところを辞めたのはちょうど3年間だ、その後は知らん」
「なるほどね。彼女は売上のあがりを貯めて自分の身柄をあんたから買い取ったんだろ？　いくらか知らないが、そのすぐ後に繁華街の一等地におしゃれな店が買えるほど稼いでたのか？」
　たちまちグーフィーの顔色が変わった。小鼻をひくつかせ、歯噛みをし、叩きつけるものを求めて手がさまよった。私はその怒れる手にブラディ・メアリーのグラスを握らせてやった。彼はそれをぐいとあおり、
「そっくり話せ。さあ」
「さっき聞いたとおりだよ。スヴェトラーナには2回の逮捕歴がある。一回目は売春取締法違反で二回目はそれと麻薬取締法違反だ。俺はてっきり、あんたがうずたかい札束を積み上げてまで保釈してやるほど彼女をお気に入りだったんじゃないかと踏んでたんだがね。そして、その女がなぜかラナケス出身の皇妃様と仲良しで、お忍びの際は店にかくまって愛人との仲人をやってるって噂だ。ずいぶんいい金になりそうなもんで、それもあんたのビジネスの一環だと思ってたんだが、なんだ、あんた何も知らなかったのかい？」
　グーフィーの手の中でグラスがぽんと爆ぜた。ガラスの破片が飛び、トマトジュースとウォッカが私のウーステッドのジャケットにはねかかった。グーフィーはだらだらと血が流れ出す手でテーブルをばん、と叩いた。
「あばずれめ。魚の餌にしてやる。よくもこの“比類なきグーフィー”さまをアレクサンダー・カッツェンバックなんぞと組んでたばかってくれたもんだ。あの恩知らずのポン引きもピューレにして、ドッグ・フードにしてやる」
　私は白いテーブルクロスに赤い染みが広がっていくのを見ながら尋ねた。
「アレクサンダー・カッツェンバックって誰なんだ、グーフィー」
「アレクサンダー・くそったれ・カッツェンバックだ、間違えるなよ。ラナケスの没落貴族だとか、ぶさいくな皇妃の親戚だとか自分で言い張ってたがな。あちら産の粉や移民女をさばきたいってんで、あがりの15パーセントをおれに納める条件でこのシマで商売をさせてやってたんだ。おれとしては善行(ミツヴァ)のつもりであの文無しをわが社の国際事業部ラナケス工場に据えてやってたんだが、まさか女ねずみと組んで上前をはねていたとはな。あのろくでなしどもをうちのチワワに食わせるまで、おれは絶対に許さんぞ」
　内心、新たなヒントをつかんで踊り出さんばかりだった。
「なあグーフィー、その役目は俺が買うよ。くそったれの居場所さえ教えてくれたら、俺はあんたの一番気に入るやり方で奴らをトイレに流してやれる。信用するだろ？」
　グーフィーはテーブルに置いていた手を持ち上げると、ガラスの破片をふるい落として指を鳴らした。即座に5人ものギャルソンが現れ、回教の踊る苦行僧(ダルウィーシュ)のように飛び跳ねながらすばやくテーブルを片付けた。
「ふん、ボクサー上がりの公務員にまともな掃除なんぞできるか。仕事なんだろ、え？　まあ、おれはあとしばらくは新しい商売(ビジネス)から手が離せん。おれの顔を潰さないようにしてくれるってんなら、こっちも相応のことをしようじゃないか。ヴァンドリッチ通りの8025番地へ行け、兄弟。貸しにしといてやる」
「ありがとうよ、大将。恩に着るぜ」
　私は颯爽と立ち上がり、“1（アイン）”に、行くぞ、と合図を送った。
「おい、何も食っていかんのか？」
「これからデートでね」
「おれの知ってる女か？」
「エカテリーナ皇妃だよ」
「ほんとか？」
「ほんとさ、俺を信用しろよ」
「あの女、下も赤いのか？」
「根っこまで黒いよ。ショウより素敵な商売はないぜ(ゼアズ・ノー・ビジネス・ライク・ショー・ビジネス)」

　アカのボスをアレクサンダー・カッツェンバックとして組み上がるパズルを、私は頭の中で一度崩した。足りないところを想像で補っても――アレクがエカテリーナの本物の親族で、皇妃とロック・スターの不倫を助けてやったがために没落し、生き延びるために無法者をしている、とか――基本的な“なぜ共産革命なんか起こしたいのか”に当てはまる理由が見つからないのだ。金…　パレポリがラナケスみたいな軍事だけの貧乏国家になったら無法者は甘い汁を吸えなくなる。金ではない。無法者は金以外の理由で動いたりはしない。よって、つじつまが合わない。
　午前11時21分。参謀本部に戻る道すがら、私は刑務所の病院でムスタファの面倒を見ている“3（ドライ）”から無線を受けた。
『隊長、こちら“3（ドライ）”。ムスタファの顔に微かですが整形手術の跡が見られます』
「解析できるか?　整形前の顔を」
『お安い御用です。似顔絵にして“8（アハト）”に送っておきます』
「任せた。昼飯買ってってやるよ、何がいい？」
『どうも。でも結構です、さっきプロテイン・バーをかじって腹いっぱいなので』
　私は苦笑しながら無線を切った。
「“3（ドライ）”は嫁さん貰うべきだな。医者の頃からまともに飯食う時間とったことないんだとよ、いつかぶっ倒れるぜ」
助手席の“1（アイン）”が横目で私を見据えた。
「気前のよろしいことで。“4（フィーア）”に売った拳銃の原価はいくらだったのですか？」
「いんちき野郎のドワイティが造った試作品に値段なんかあるもんか。俺も使ったことはないし、まともに使えるのかどうかも知らない。“4（フィーア）”が勝手に8万ギルの価値を見出したってことで納得しようじゃねえか」
　“1（アイン）”はため息一つつき、
「正直、旦那様の友好関係の広さと質の悪さにはびっくりしました」
「だからついて来んなって言ったんだよ。お養父さんとお養母さんには黙っとけよ、結婚式に呼んだ上品な人間だけが俺の友達だと思ってるから」
「いつからあんな大物とお知り合いなのです？」
「真実はワインの中だよ(イン・ヴィノ・ヴェリタス)」
「私を丸め込みたいなら全てを打ち明けるべきですよ、ご主人様(マスター)。納得させていただかないとうっかり口を滑らせてしまうかもしれません」
　私は、どうして彼はこんなにしつこいんだろうと訝りながら観念して答えた。
「グーフィーは昔、よく俺の試合に大金賭けてがっぽり儲けてたんだよ。やつ自身もバンタム級あたりにへぼボクサーをたっぷり抱えてたが、スペードのエースを俺にして金持ちから大金持ちになった。俺自身もかなり稼がせてもらったしな。グーフィー教として広めたいくらい世話になったわけだ。納得していただけましたか(カピーシェ)、陛下(ユア・マジェスティ)？」
「納得しました(コンプレンデ)。八百長をしたのですか？」
「数回だけだ。クロエには黙っとけよ、俺の不敗神話を信じてるから。分かったか(カピーシェ)？」
「分かりました(コンプレンデ)。それがライトヘヴィ級に留まった理由ですか？」
「理由その１、体重を低めに抑えた方が動きやすかった。そりゃヘヴィ級は華やかだったし、ファイトマネーも段違いだったけどよ、俺のスタイルはスピード命だったから5キロも増やす気にはなれなかったね。理由その2、ライトヘヴィ級は安全地帯だった。そりゃみんなヘヴィ級に行きたいだろ、だから他の奴らはみんな腹に炭水化物詰め込んでとっととライトヘヴィ級を出て行ったんだ。残った俺の相手ときたら、同じく体重を水増ししたミドル級の連中ばっかりで、八百長するまでもなくライトヘヴィ級は俺の天下になったってわけだ。分かるか(コンプレンデ)、どあほう(ペンデホ)？　最強でいたけりゃ自分より強い奴とは闘うなってこった。生活かかってる場合は特にな」
「スヴェトラーナとはその関係で知り合いに？」
「時効だぜ、大先生(イル・マエストロ)」
　“1（アイン）”は私をじっと睨んだ。
「何だよ？」
「何でも」
「言いたいことがあるんだろ？」
「別に」
「ないならいいけどよ」
「あります」
「どっちなんだよ？」
　“1（アイン）”は私の顔を見ないように、窓の外へ顔を向けた。
「完璧な英雄などいないと分かっただけです。あなたを軽蔑などしません」
「まるで俺が軽蔑に値する最低の嘘つき野郎(ビーチェ・プート)だとでも言いたそうじゃないか」
「その上詐欺師(マザー・ファッカー)で証拠隠滅屋(コック・サッカー)、一瞬でも憧れた自分が恥ずかしいくらい極め付きのくそ野郎(シャイサー)です」
「まさにその通り(トゥシェ)」
　堅物な守護騎士の愛らしい面が見えたので、登校拒否生徒を部屋から引きずり出すことに成功した教師のような嬉しい気分を味わえた。
「おまえがスポーツ好きだとは驚いたね。小学校の作文には何て書いたんだ？」
「マテウス・ブライチャートのような『黒き風』になりたいと。私の家は代々レニンシュタール家の召使いを務めてきたので、それ以外の職業など夢のまた夢でした。せめて夢だけでも見ようとテレビや雑誌でお姿を拝見したものですが、本物のあなたは腹の底まで黒くて風みたいに掴み所がないのですね。ぴったりの二つ名だと思います」
　私は“1（アイン）”に右手を出させ、手のひらを叩き合って拳をぶつけ合った。
「大人になれたろ？　その上俺の秘密の共有者にもなっちまったわけだ。墓の中まで持ってくつもりだった過去なんだぜ、少しでも誰かに話したらおまえも埋めるからな。肝に銘じとけよ、相棒(パートナー)」