パレポリアン・タブロイド15

「お父様！　ラインハルトはどこにいるの!?」
　甲高い少女の声に振り返ると、書斎の入り口からずかずかと長女と次女が踏み込んできた。何事か見遣れば、マルグレーテはぷんぷん怒っていて、エリーザベトはパンダのぬいぐるみを抱えて涙目になっていた。二人ともなぜかピアノの発表会用のドレスを着て派手な厚化粧を施されており、どこからどう見ても歩く着せ替え人形だった。子供といえども女には変わりなく、私が引っ張り出した資料を棚に押し込みながらぼそぼそ何か話していた“9（ノイン）”が途端に黙り込んだ。
「おう、マリィにベティ、衣装合わせか何かか？　学芸会でしゃべる人形の役でもやることになったのか？　お母さんと一緒に観に行くからな」
「違うのお父様、しゃべるマネキンの役なの！　わたし、疫病神に育てられた名探偵の方がやりたかったのよ！　絶対ハイフェッツ先生はクリスティーヌ・ノイマンを贔屓してるのよ、わたしの方がおでこ丸いのに！」
「名探偵のでこっぱちは丸くない方がいいんだよ、頭を使いすぎて将来禿げ上がりそうな真っ平らがいい。お父さんはこれから少し出掛けてくるんだ、ラインハルトに用事があるなら伝えとくぞ？」
　マルグレーテは地団駄を踏んだ。クロエ譲りのプラチナ色の髪が蝶の羽のようにひらひら舞った。
「そうなの！　ラインハルトなの！　嘘をついたのよ、お父様！　だってお父様はここにいるし、お散歩にでも行くような格好をしているわ！　お母様も礼拝用のお洋服を着ていたし、舞踏会なんて昼間からあるわけないもの！　ラインハルトは最初からわたしとベティを置いてきぼりにするつもりだったのよ、わたしたちもお出掛けしたかったのに！　こうなったら、お父様に連れていってもらわないと気が済まないわ！」
　自分のみぞおちにボディ・ブローを叩き込んだような衝撃。「マリィ、お母さんはどこへ行くって言ってた？」
「リーネ広場よ！　お父様には内緒だって約束だから、わたしが言ったって言わないで！」
　自分の顔面に4発のコンビネーションを叩き込んだような衝撃。「イシトはどうしてる？」
「お部屋にいたからさっき一緒にドレスを着せようとしたの、でも逃げちゃったわ！　それよりも許せないのはラインハルトよ、わたし、絶対に許さないんだから！」
　マルグレーテの激昂と同時に、エリーザベトがくすんくすん泣き出した。私は彼女たちの頭をぽんぽんと叩くように撫でてやり、次いで机の一番下の引出しを開けた。箱ごと抜き取り、ひっくり返して中身を全部外に出すと、最悪の予感が見事に的中したことが伺えた。どこを探しても底にテープで留めておいたはずの武器棚の鍵が見当たらなかった。

ミッション『どぶさらい』：“4（フィーア）”

“フランツ・カウフマン、ガルディア王国歴975-1000年、据え膳は残らず食い尽くし、自分になびかない女はみんなレズだと思っていた男”
“5（フェンフ）”の墓に銘名を刻むなら、“誰それ最愛の―――”や“なにがしの息子―――”よりもこんな気の効いた文句が似合うだろう。それとも、
“フランツ・カウフマン、ガルディア王国歴975-1000年、その類稀なる巨根（本人談）においてあまたの女達から愛された男”
とか。シンプルにいくなら、
“フランツ・カウフマン、ガルディア王国歴975-1000年、馬並”
　の方が草葉の陰で本人が喜ぶかな。たぶん、
“フランツ・カウフマン、ガルディア王国歴975-1000年、存在自体が黒くなったバナナだったせいで滑って転んでつんのめった男”
　よりはましでしょうね。でもまあ、普通に考えるなら、
“フランツ・カウフマン、ガルディア王国歴975-1000年、その豊富な下ネタにより多くの人々を笑わせた（失笑を買ったんじゃなくて）勇敢なりし我らがコメディアン・“5（フェンフ）”“
　が妥当か。花は桜木人は武士ってくらいの潔さで散った男だもの、せめて死に様くらいすてきに讃えてあげたいわよね。
しばらく泣いて落ち着いた“3（ドライ）”の顔つきが変わったように見えた。昼行灯から静かな泉の底に湧き上がるマグマへ―――その鋭い目つきから、吹きこぼれ土鍋に例えられる“1（アイン）”よりももっと深い情念が見え隠れした。きっとこれが本来の彼なんだろう、曖昧で気弱で“5（フェンフ）”に関する事柄だけ冷徹っていう一面しか知らなかったから、本当の“3（ドライ）”がこんな熱情家だとは少し意外な気がした。今の彼にはきっと、
“アドルフ・シュワンクマイエル、ガルディア王国歴970-？　寝取られ野郎”
　とか、
“アドルフ・シュワンクマイエル、ガルディア王国歴970-？　人生の成功者から負け犬に転落したおかげで周囲に妬まれるどころか逆に好かれた男”
　より、
“アドルフ・シュワンクマイエル、ガルディア王国歴970-？　男性ホルモンの枯渇（ドライ）？いえいえ、実は昨日の敵を今日の友とす仁義に厚き医師“3 （ドライ）”なんです“
　とか、すこし洒落るくらいの余裕はあるでしょうね。きっと今まで裁判に負けて卑屈になっていただけ、その負い目を“5（フェンフ）”が拳でもぶつけて開放にしてやったんじゃないかと思うから。“5（フェンフ）”―――アホだったけどいい奴だったし下手だったけど顔はよかった。まさか、本当に死んじゃうなんて。
　“7（ズィーベン）”はいまだに左手で目を覆っていた。落ち着くまでもうしばらく放っておいてあげるのがいい。今となってはあたしたちを生かすも殺すも彼次第なんだし、いくらなんでも、
“ヨハン・ヘイゼルバーグ、ガルディア王国歴978-？　死ぬまで童貞だった男”
　は可哀想すぎる。それよりも、
“ヨハン・ヘイゼルバーグ、ガルディア王国歴978-？　麗しの“4（フィーア）”様をパレポリの救世主へと導いたおかげでめでたく大人へと導かれた馬鹿ヅキ技術者“7（ズィーベン）”
　の方が百倍はまし。もし本当にこの爆弾を解除に導いてくれるなら、それも彼にとって夢ではないことよ。
　さて、そこまでにしよう。あたしは頭をぶんぶんと振り、墓碑銘をひねるのをやめようと努めた。自分のものまで浮かんできそうで縁起が悪かったんだもん。今さら時間を逆行して“5（フェンフ）”を助けてあげることはできないし、あたしにできる精一杯のことをして黒幕にこのDI-5を一気飲みでもさせるのが一番の仇討ちだから。だったら振り返って嘆くより、早く爆弾の解除を済ませなきゃいけないよね、“5（フェンフ）”？　ともかく、これでトラックの軌道を修正するっていう保険はかけられなくなったってわけだ。しかも、“5（フェンフ）”とやりあって、貨物室に侵入者が乗っているって分かったはずなのにトラックは止まってくれない。一体誰が運転していて、何を考えているの？　ハイウェイに乗ってから3時間は経ってる。リーネ広場まであとたった30分あまり ―――それまでに爆弾をすっかり解除して、臨戦体勢に入っておかなければいけない。
「“4（フィーア）”、キットの、中に、プラスティックのピンセットと、絶縁ステッカーが、ある。それを、ハンマーの、先に装着する、んだ。すぐ、取り掛かって」
　もうずっと泣きっぱなしの“7（ズィーベン）”が嗚咽混じりに言葉を紡いだ。鏡を使い、いまだに涙の枯れない真っ赤に腫れ上がった目で結合部のある穴口を覗いていた。
「赤外線装置を壊す方が先よ。こんなに狭い隙間に絶縁体なんかとても通せないわ」
「赤外線、装置は穴の内側に、つい、てる。赤外線に触れずに、それ、を壊すのは、絶縁体をくぐらせる、より、もっと無茶だ、よ」
　気を取り直せたってわけじゃないけど、あたしは速やかに赤外線スコープをつけた。ピンセットは細かったけど丸い絶縁ステッカーには直径2センチくらいの幅があって、半分に折りたたんで微妙な方向に傾けてはじめてぎりぎり赤外線の網目の隙間を通ると思われた。ぎりぎりよ、めでたく通せても隙間なんか１ミリも空かないくらいのドぎついぎりぎり。それからピンセットを操ってステッカーを広げてハンマーの先に装着…　赤外線にまったく触れずにそんなことできると思う？
“フェリシテ・ディーデリッヒ、ガルディア王国歴976-？　タダ乗りアテンダントから転落してうまい汁の代わりに神経ガスを吸った女”
　あたしは左手で右手を支え、細い赤外線の隙間に絶縁体を通そうとした。微妙な手の震えが、絶縁体を赤外線に近づけることすら拒んだ。
「少し…　このステッカーが大きすぎるみたい。一回り小さいのを使ってもいい？」
「それが一番、小さい、んだよ。大丈夫、君の、手先は、おれより器用だ、から」
“フェリシテ・ディーデリッヒ、ガルディア王国歴976-？　どうでもいい男の間を死ぬまで放浪した人生旅人”
　走行中のトラックの上ってこともあるけど、何度試みても微妙な手ブレが邪魔をした。あたしは額の汗を拭って目をこすったり腕を伸ばしたりしてどうにか集中しようとした。
「大丈夫、だよ、“4（フィーア）”。君なら、できるから。落ち、着いて、やるんだ」
“フェリシテ・ディーデリッヒ、ガルディア王国歴976-？　犠牲の羊”
　あと20分。トラックはすでに減速し、ハイウェイを降りていたのは明らかだった。あたしは隊長が起爆係を見つけられたことに一縷の望みをかけ、ろくでもない墓碑銘を頭から振り払おうとした。なぜなら、
“フェリシテ・ディーデリッヒ、ガルディア王国歴976-？　パレポリを救った史上最大の美しきヒロイン“4（フィーア）””
　って文句だけを頭の中に閉じ込めようとどんなに試みても、
“フェリシテ・ディーデリッヒ、ガルディア王国歴976-？　一瞬の処理ミスでパレポリを破滅に追いやった女”
　って文句がそれの代わりに脳裏に渦巻いていらいらしっぱなし、とても集中できたもんじゃなかったから。

ミッション『Doomwatching』：“１（アイン）”

『クロエはいるか？』
　前置き抜きで無線から投げかけられた声は底冷えするような怒りに染まり、主人のそんな様子をついぞ感じ取ったことがなかった私は少しひるんで対応した。「いえ、ここには」
『誰が一緒だ？』
「アンドレアが運転手として付き添っています。あの、旦那様、私は何度も…」
『言い訳なんか聞かせるな。おまえが止めようとしたことくらい俺にだって分かる。アンドレアに無線は持たせたか？』
「いいえ、奥様が断固としてお受け取りになられませんでした」
　沈黙。何か話した方がいいだろうか。
「旦那様、私が奥様の外出希望を泣く泣く承諾したのは、奥様が皇妃に親しい間柄だからに他なりません。他の誰が危険に見舞われてもクロエ様の安全だけは保障されているでしょう。それに、あのお方は私が命に変えてもお守りしますから。だから…」
『だから何だ？　状況を聞かせてやる。本当ならすっ飛んでいきたいところだが、俺はもう少し市内に用がある。そっちをキャンセルすると今度は何もかもがとち狂うわけだ。おまえは今すぐクロエたちの車を止めろ。どんな手を使ってもいい、まっすぐ家へ帰せ。できるだろ？』
「奥様は私が何度も説得してもお聞き入れくださいませんでした。今さら何を言おうが…」
『おまえは皇妃の相手しながら片手間でクロエを守れると本気で思ってんのか？　もういい、俺が話をつける。横付けして無線をアンドレアの車の中に投げ入れろ』
　助手席の“2（ツヴァイ）”が心配そうに私を振り返った。隊長たるマテウス様の苛立った様子に尋常でないものを感じたのだろう。
「私たちはハイウェイを走っているのです。奥様が乗っていらっしゃるのですよ？　そんな危険なことができるとでも？」
『大きな危険にクロエを向かわせておいて小さな危険も冒せねえのかよ？　一体おまえは俺にどうしろってんだ？　女房を見殺しにしろってのか？』
「そんな！　旦那様、聞いてください、私は…！」
『だから、言い訳なんか聞きたくねえって言ってんだろうが？　そりゃあ今は個人の事情に突っ走ってる場合じゃねえさ、でもなラインハルト、おまえは俺の信頼を裏切るような真似をした。本当に止める気があったならクロエを椅子に縛り付けることでも睡眠薬盛ることでも何でもできたはずだ、違うか？　これでもしクロエに何かあったら、俺はおまえを許せんよ』
　頭に血が上ったのはきっと、その言葉の端々から彼が本当に私を信頼していたわけではないことを感じ取ってしまったからだろう。
「私を信頼しているというのなら、どうして私がクロエ様を守りきれるとは信じてくれないのですか？　私が生半可な気持ちで奥様の外出を承諾したとでも？　言い訳にすぎないのは分かっています、でも旦那様、あなたこそ私を責めるより先にクロエ様に事の重大性をお知らせできたはずでしょう？　私に頼りすぎるくせに、私があなたの落ち度を責任を持って埋めようとしていることすら分かってはくれないのですか！」
『相変わらずあっぱれな自信家ぶりだな。いつものふりとどう違うのかは知らんがね。本当はクロエが皇妃側についてるってことで、危険なんか満に一つも起こりっこねえと思いたいんだろ？　おまえは本気で可能性を過小評価するほど馬鹿じゃない。ただ目を向けるのが怖いだけだ、そうだな？　もう少し早くその臆病っぷりを指摘してやればよかったと後悔せずにはいられんね。なあラインハルト、一生罪の意識を背負って生きるのと一生俺に腹の底で小心者呼ばわりされるのとどっちが怖い？』
いつも冷静なマテウス様とて、大切な人間がからめば逆上することくらいあるのだ。それを分かっていたはずなのに、私は目の裏の赤い血管が張り詰めて弾けるのを止められなかった。
「そんな生き方を強要されるくらいなら、たった今を以ってあなたの従者を辞めさせていただく」
彼は私の傷口に塩を擦り込むように笑った。『ありがたい。そう願ってたよ』

　自分の口から際限なく飛び出す大人気ない雑言の数々には驚かされた。実はすべて益体もない八つ当たり―――“3（ドライ）”から届いていた“5（フェンフ）”の死亡報告がすでに私を怒り狂わせていたし、そんな時にクロエが私に黙って事態に足を突っ込もうとしていることが気に入らなかった。“1（アイン）”に彼自身を擁護するだけの理性のない弁明ばかり聞かされるのも気に入らなかったし、彼を傷つけてさえ私の業腹がおさまらないのも最悪に気分が悪かった。ただ、言い過ぎて悪かったとは思った。かといって、今すぐに謝るには私の神経はまだささくれ立ちすぎていた。
　あと7分で14時だが、私と“9（ノイン）”はいまだに市内にいた。交通渋滞さえなければ少しのスピード違反で17時にリーネ広場に着けるだろうが、スヴェトラーナが遠隔起爆装置を使いたいのは18時だということを踏まえて私は自分にあと37分だけ猶予を与えた。軍が味方でいてくれたなら、今すぐにヘリコプターでも空爆機でもステルスでもなんでもいいから駆り出してクロエを止めに行くところだが、陸路では到底追いつけないほど距離に差があるために、最良の危険回避法は残りの謎をすっきり解いて黒幕がなにを考えているかを過不足なく割り出すことだと思われた。
考えてみれば、本当にDI-5を使いたいだけならこんな指輪は必要ない―――過重に仕掛けられた防護システムにひっかかってしまえば爆弾は必ず作動するのだから。こんなものを私が届けなくても、女狐が本当にただの爆破を狙っているだけならスケープゴートを使って赤外線ガードの中に手を突っ込ませるだろう。要するに、指輪の用途は『この指輪を使って爆破した』という事実証拠のために必要なのだと思われた。だから遠隔なのだ：指輪の使用者、証人となる目撃者を毒ガスで殺さないために。
　しかし、気体兵器の恐ろしさはほとんど際限なく広がるところにある。たとえ遠隔起爆装置を使ったところで、5リットルものDI-5が残らず撒き散らされれば、被害はパレポリ市やトルース町はおろか、最悪ガルディアやウシリス、ラナケスの端まで及ぶだろう。しかし、スヴェトラーナはグラウンド・ゼロになる予定のリーネ広場にいるという。あの女が被害者全員と心中するつもりだというのだろうか？　ありえない。だったら私を利用する必要はないのだから。
　ふと、密閉空間、という単語が私の頭をよぎった。気体の漏れいずる隙間もないような完璧な密閉空間に爆弾と被害者を閉じ込め、外から遠隔起爆装置で爆破するとしたら？　その方法でなら、中の者は全員死に至らしめられるが外の者にはまったく被害が及ばない。そういえば、リーネ広場にあるラナケス正教会のチャペルは、25年前にトルース街で起きた大火事のときに避難所になったはずだ―――私の家は周囲が畑だったために被害を逃れたが、確か念のためにと私もそこに逃れた記憶がある。実際、閉め切られたチャペルの中には煙ひとすじ入ってこなかった。なんでも、地下にあるカタコンベを守って霊魂を安らかに眠らせるために、災厄が忍び込む隙間を空けない設計であるそうだ。スヴェトラーナはほぼ間違いなくチャペルを閉め切っての爆破を狙っているが、だとしたらなぜ DI-5は全パレポリ市民を殲滅できるほどの量が必要だったのだろう。答え：全市民を殲滅しようとするような、悪魔のような殺意が誰かにあると見せかけるためだ。ストライキからはじまり、暴動にまで高まり、何人もの人間を殺し、それなのに蓋を開けてみれば個人に濡れ衣を着せるための偽装工作―――どこまで人を憎めばそんなことができるのだろう？
「隊長、着いたがのんし」
　“9（ノイン）”の一言で我に返った。顔を上げると、ダウンタウンのオフィス街にひしめくビルの真ん中で、陽光の逆反射を浴びて『醜聞礼賛社』の看板が光っていた。さすがにタブロイド系ではパレポリ一の発行部数を誇る出版社のオフィスだけあり、ガラス張りの建物ではあったが、
どこの階をみても外からは特盛りの紙の山しか見受けられなかった。スヴェトラーナが何のためにパパラッチたちを殺したかを考えれば、マスコミが重大な鍵を握っているはずと思って間違いないだろう。
「路駐して待ってろ。すぐ戻る」
　私は“9（ノイン）”にそう言い残して車を降り、ビルの中に入った。受付を素通りすると、受付嬢は私が警官か何かだと思ったのか、疑わしそうな視線を投げかけた。私はそれを無視してエレヴェーター脇の案内板を観察し、『週刊トップ・シークレット編集部』という文字を見つけて非常階段を3階分上がった。エレヴェーターを待つ時間が惜しかった。
　机とコンピュータと写真と紙の山がひしめいている大きな編集室に入ると、そこで忙しく働いている記者たちの値踏みするような視線が私に刺さった。特に気にするほど悪意がこもっていたわけではなかったので、私は何の駆け引きもしないで“編集長、ヨカナン・ハイルブラナー”というプレートがかかった部屋の前まで来た。
　私はノックせずに編集長室のドアを開けた。途端に、私に背を向けて編集長ヨカナンと向き合っていた半裸の秘書がびっくりしてデスクの上から転げ落ちた。
脂肪で血管が詰まりそうなほど太っているが私より2、3歳若いであろうヨカナンは、シャツのボタンを留めながら真っ赤になって怒り出した。「ノックをしろと言ったはずだ！　それに、3時までは誰も入れるなと言っておいたはずだぞ！」
私はドアを後ろ手に閉じた。「すみませんね。誰も止めてくれなかったもので」
「誰があんたをここに入れた？」
「社員たちの反感さ。みんなよっぽどおたくが嫌いか、“勤務中に秘書とファックしてもよい”って部署の方針を新たに作って欲しいかどっちかだな」
「警察か？」ヨカナンのたるんだ顔が強張った。情事を邪魔されて腹を立てた秘書は大きな音をたてて扉を閉め、編集長室を出ていった。
私はデスクまで歩いていって偽物の警察証を提示した。「いわば亡命者だよ。市警をやめたばっかりで、反体制的ジャーナリズムに救済を求めてるってわけだ。俺の回想録を売り込みにきたんだが、いちばん筆のたつゴースト・ライターを紹介してくれないか？」
ヨカナンの視線が私の顔とコンピュータのモニターを往復した。私の手配写真がネット上を流れ出したのかもしれない。「…あんた、誰かに似てるな」
「死んだじいちゃんに生き写しだってよく言われるぜ。そんなに昔から俺の家族を知ってるにしちゃおたくは少しばかり若すぎる。美容の秘訣でも？」
「アポを取って出直すんだな。おれはこれから仕事が山積みなんだ、30秒やるから出ていけ」
「秘書とファックするのに忙しいんだろ？　実際のでかい仕事は5時までないはずだぜ。まったく、編集長からしてファック野郎だってんじゃ皇妃を探って死んだ記者たちも浮かばれないだろうよ」
「警備員を呼ばれたいのか？　それとも他誌の回し者として吊るし上げをくらいたいのか？」
「レイ・クーンツのことを話したいのさ。おたくの臨時雇いのカメラマンだった男だよ」
　私は“9（ノイン）”がアレクの娼家の床下から拾っておいたレイ・クーンツの運転免許証と名刺を差し出した―――ついでに“3（ドライ）”が撮っておいたクーンツのミイラ写真も添えて。
ヨカナンの分厚いまぶたの奥の瞳に一瞬にしてプロ根性が宿った。彼は灰皿に乗っていた吸いさしの葉巻を太った男特有の優雅な動作で取り上げ、歯で銜えながら目を細めて免許と写真を交互に視線を渡した。「これをどこで手に入れた？」
　私はデスクの上に腰掛けた。「どうして彼がこんな目に遭ったのかを先に聞きたいね」
「いまひとつ定かじゃない。レイモンドはフリーランスだったが強烈なモラリストで、不倫中のエカテリーナ皇妃に公の場で制裁を加えようと躍起になってた。おれはゲイブリエル・レガットのヤサにしけこむ皇妃の写真、もしくはゲイブと皇妃の現行犯写真ならば出来によって一枚100万ギルから200万ギル払うと約束した。そのかわり、ネタが拾えたら他誌じゃなく真っ先にうちへ持ってくるように契約を結んでな。皇妃の身辺を探っているうちに、レイモンドは何か尻尾を掴んだらしかった。その頃だよ、彼が消えたのは」
「レイ・クーンツがモラリストだって？　そいつは違うぜヨカナン、レイは娼婦に変態行為を迫った挙句、めちゃくちゃにぶん殴って女の顔を痣だらけにするようなくそったれだった。証人は消えちまったけどな」
「どこに？」
「市警のモルグか火葬場の火の中さ。名前はヘレガ・ロマンチェンコ。アレクサンダー・カッツェンバックってけちな野郎の元で客を取ってた整形美人だが、本名はオルガ・プーシキンっていう元“KGV”のゴリラだった女だ。どの新聞もまだネタにしてないが、夕べヴァンドリッチ通りの8025番地で派手なガチンコがあってな。このまま順当にいけば明日の朝刊の死亡欄にレイとヘレガの名前が載るだろうよ、この街のジャーナリストが今日の6時に全員死なない限り」
　ヨカナンは贅肉のぶら下がる顎を引き締め、真実を見抜こうとする目つきで私を見据えた。
「警官ってのは嘘だな？　あんた、マテウス・レニンシュタールだろう」
「俺の名前なんか知ってどうすんだよ。引き渡したい相手でもいるのか？　印税でも振り込んでくれんのか？」
「あんたを見つけた時点でネタを搾り取れるだけ搾り取って陸軍に引き渡すよう会社から指示を受けてるんだ。ネタを搾るってのはここだけの話さ、軍はあんたを発見次第すぐ口を封じたいらしいからな。軍のスポークスマンはうちの取材陣に『場合によっては実力行使も止むを得ない』って言ってきた。今社長がここに入ってきたらあんたは袋だぜ」
「それくらいならむしろありがたいね、陸軍じゃ“場合によっては実力行使も止むを得ない”は“見つけ次第射殺せよ”って意味だからな。そんな状況になってることをわざわざお教えいただけるとは光栄なこった。あんた、俺に逃げて欲しいのかい？」
「マテウス・ブライチャートはおれの大の贔屓だったのさ。あんたが引退してからライトヘヴィ級にはろくな選手がいなくなっちまって、ここ13年間おれはミドル・ストロー級の試合にしか賭けた覚えがない。でもあんたはレイモンドのことを伝えにきてくれたし、その恩人をこけにするのはおれの流儀に反する。何が知りたいんだ？　話してくれ」
　ヨカナン・ハイルブラナー、枕詞に“欲望に生きるでぶ、プロのメディア職人、そして漢”と添えてもいい。
「まず、俺から搾り取れる記事ネタってのはどんなのか教えてほしいね」
「あんたと10人の部下が逃亡中のテロリストだってネタさ。陸軍を裏切って皇妃に身売りしたってことで、総督から指名手配が出てるよ。おれは信じてないけどな―――新聞、雑誌、テレビ、どれも実際は90パーセントが嘘と誇張さ。視聴者が金を払って楽しんでくれりゃそれでいいんだ」
　私の読みは正しかった。やはり私は皇妃側に身売りしたことになっていた。
「特派員をリーネ広場に向かわせてるな？　どんなネタをすっぱ抜くつもりだ？」
「皇妃は結局ゲイブにふられて、世を儚んで礼拝が終わり次第誰かと心中するつもりらしいってことさ。その誰かってのがトルース町民、ひいてはパレポリ市民全員らしいってんだから大事件だろ？　なんでも、皇妃は自分を受け入れてくれないパレポリ人みんなを恨んでとんでもない毒ガス兵器をラナケスから輸入したらしい。そのご立派なテロ行為にあんたらが一枚噛んで、それを陸軍のギリアン総督が身を呈して阻止するっていう筋書きさ。実現したらパレポリはじまって以来のどでかいドラマだよ。ここまでブン屋の血が騒ぐヤマは久しぶりだ」
「その情報を流したのはスヴェトラーナ・クアジンスキーだな？」
「名前は知らんが電話をかけてきたのは女だったぜ、なかなかそそる声だった」
　私の読みは正しかった。スヴェトラーナは証人としてマスコミ各社に白羽の矢を立てたのだ。
「でも俺はいまだにここにいる。それが真っ赤な嘘だってことは分かったはずだ。記者陣を戻らせた方がいい、ろくなことにならないぜ」
「他紙からも大勢トップ屋が押し寄せるんだ、譲る気にはなれないね。そうでなくてもおれたちは皇妃の不倫を探るために記者を何人も殺られてるんだ、彼女の悪事を暴くまではこの弔い合戦を引き下がれんよ」
　私の読みは正しかった。スヴェトラーナはそこまで考えて記者たちを殺したのだ。
　スヴェトラーナは皇妃についていたわけではなかった。いや、ついていたのだろうが、空前絶後の事件ネタとともに皇妃の抹殺を狙う真の黒幕側に抱きこまれたのだ―――女狐の狡猾さと元娼婦の身売りの極意で。私は首から下がる指輪を握った。内側に皇帝カイザー・ミュゼの流麗な筆跡で“安らかに眠れ”と刻んである葬送指輪は私の体温で熱を持っていた。熱冷ましが切れてきたのか、全身が熱くて寒かった。
「礼を言うぜヨカナン、話せてよかった。何かいい情報があったら全部あんたにまわすよ」
　加害者だと思っていた皇妃が予定被害者だと確信が持てた今、どう考えてもクロエが危なかった。私はくるりと踵を返してドアに向かった。
「もう行くのか？　だったら色紙にサインくれないか？」
「右手が使えないんだ。左手でいいなら後でな」
「こりゃたまげた。引退してもまだ故障してるのか。あんた十分現役で通用するぜ、ライトヘヴィ級に戻ったらどうだい？」
「今のウェイトじゃせいぜいウェルター級だろうよ。あそこは野心家の巣窟だから俺には向かんさ。俺の時代はショウより素敵な商売はなかったからな」
「女向けのか？」
「間違ってるとは言い切れんね」
「延べ人数でいうと？」
「すまんが思い出せない」
「写真は？　いや、女の方が覚えてるはずだ」
「若気の至りを記事にするのはよしてくれ」
「読者はそういうのを待ってるんだよ。ショウより素敵な商売はないぜ」

ミッション『どぶさらい』：“7（ズィーベン）”

「…ということは、DI-5は茶番のための小道具だということですか？」“4（フィーア）”が苦戦する傍らで“3（ドライ）”が隊長の連絡に答えた。
『その茶番のシナリオには俺たちが皇妃の大量虐殺に荷担した挙句、大陪審で見世物になって最終的にセント・グリフィスの緑の小部屋の電気椅子でフライになることも含まれてる。プレッシャーをかけてすまないが何がなんでも処理を急でくれ。今どんな状況だ？』
「あと一歩です。その一歩が過重の赤外線セキュリティに阻まれてうまくいきません。うまくいけば完全処理には1分もかからないのですが」
『こういう言い方をすると本当にプレッシャーをかけると思うが、おまえらが頼みの綱なんだ。なんとかやり遂げてくれ、頼んだぜ』
「了解」
　無線はそこで切れた。処理に集中しながらも会話を聞いていた“4（フィーア）”が汗で額にへばりついた髪の毛をよけながら溜息をついた。「“リッツィー”のご飯どころの話じゃないわね。“エミリオ・フェリーニ”のバッグと“マロノ・ブラクニ”の靴も買わせてやるわ」
　“4（フィーア）”はずいぶん苦戦していた。いつも強気で自信たっぷりだから実際よりも大きく見えてたけど、汗を拭いながら作業するその背中はやっぱり狭くて細くて、中身はやっぱり普通の女の子なんだと思った。おれが守ってあげられたらどんなにいいだろう、だけど今のおれは戦うどころか起き上がることさえ困難で、“3（ドライ）”が彼女をきちんと支えてあげられることを願うしかなかった。爆弾解除の王手をひも解いてみせた今、処理道具も武器も握れないおれはもう必要ない。それどころか、こんな怪我人がいたって足手纏いになるだけだ―――リーネ広場へ到着すれば、このトラックの運転手とその仲間たちと一戦交えるのは避けられないだろうと思うから。おれは“4（フィーア）”を知ってるし“3（ドライ）”を知ってる。仲間をみすみす見殺しにできるような人たちじゃないって分かってる。そして、誰かを守って戦闘に勝つということがどれだけ困難か身に染みてる。ごめんね“5（フェンフ）”、君の手前で不謹慎だけど、おれ…　いない方がいいよね、やっぱり。
「雑音があった方が集中できるわ。何か話しててくれる、“7（ズィーベン）”？」
　リーネ広場に到着するまでの残り時間が5分を切った頃、“4（フィーア）”がおれを振り返って微笑んでくれた。素直に嬉しかったけど、もし彼女に無理に気を使わせているとしたら、やっぱりこんなおれは邪魔なだけなんだと実感させられた。
「話すことなんかないよ」　惜しまれない人間になろう。二人が笑って見捨てられるように。
「じゃあ何か歌っててよ。あたしよりは上手いんでしょうから」
「別に。下手だよ」
「仲間じゃん。今度のカラオケ合コン、二人でばっくれよっか？」
「もういいから黙って処理に集中したら？」
「それじゃ手元が緊張して集中どころじゃないのよ」
「だったら“3（ドライ）”とでも話したらいいじゃないか」
「あらら、やきもち？　かわいー♪」
なんで“4（フィーア）”にかかると全てが彼女の都合のいい方向に持ってかれちゃうんだろう？
「君みたいな男より強いタイプは趣味じゃないよ」
「女は儚くか弱く？　夢見るお年頃なのね、かわいー♪」
「違うよ！　おれはほんとに…」
「その調子で何か話しててくれる？　手元のブレにはあんたの声がいちばん効くわ。アルファ派でも出てるのかしらね？　癒し系ってやつね」
　よく見ると、“4（フィーア）”の支えるピンセットの先、要するに折り曲げた絶縁体ステッカーは見事に赤外線の網目を通り抜けていた。
「すごいじゃないか！」“3（ドライ）”が感嘆の声を上げた。
「ここからが本番よ。あとはこれを奥まで進めて、ハンマーの先に貼っ付ければいいのよね。はい“7（ズィーベン）”、トークショー再開ね。好みの女性のタイプは？」
　一瞬、涙が出てきそうになって、“君みたいな優しい子”って言っちゃおうかと思った。変な意地張ってたおれは本物の馬鹿だ、仲間を失うのがどれだけ精神的負担になるか分かってたはずなんだから。それなら、隣で妙なことをうじうじ考えて彼女の気分までもを暗くするより、役に立てることは片っ端からしてあげなきゃいけないだろう？　それしかできないならなおさらだ。しっかりしろ、ヨハン。今できる最良のことをやれ。
「おれを好きでいてくれるならどんな子でもいいよ」
「それはどうかしらね、実際ゴリラみたいな女に迫られたら男はみんな逃げるはずよ。じゃあ、理想のデートは？」
　“4（フィーア）”はゆっくりと手元を奥へ進めていった。目に汗が入りそうになり、“3（ドライ）”がガーゼで拭い取った。
「二人でツーリング…　かな」
「へえ、意外とアウトドア派なんだ？　どこ行くの？」
「彼女の行きたいところならどこでも。特にないならウィルツィー山のスカイラインかな。景色がきれいなんだ」
“4（フィーア）”が手を止め、一瞬だけ苦しげに顔を歪めた。絶縁体を広げるのに苦戦しているのかもしれない。
「ウィルツィー山は夜景も悪くないのよね。女の子が免許持ってなかったらどうするの？」
「おれの後ろに乗せてあげる。そうすれば彼女が疲れないし」
「じゃ、彼女に持ってきてほしいお弁当はどんなの？」
　淡々と話してるけど、手の震えは確実にさっきより大きくなってきてる。おれはフィーリックスの赤外線スコープをつけ、首だけをむりやり起こして彼女の手元を見た。本当に赤外線に触れるか触れないかのぎりぎり。“4（フィーア）”は極限と戦っている。
「サンドイッチを適当に。あと、ザウアークラウトとソーセージもつけて」
「チーズケーキは？」
「お弁当に？」
「デザートは別腹だもん。好き？」
「まあ、わりと」
「よかった。得意なんだ。…っと、できた！」
　絶縁体が銅のハンマーに届いた。その瞬間、トラックが急停止して貨物室全体ががたりと揺れた。“4（フィーア）”はすばやく手を引っ込めたが、バランスを崩して背後に倒れ込んだ。“3（ドライ）”は頭を壁に打ち付けていた。
　トラックのエンジンが切られた。周囲が静まり返って、“4（フィーア）”と“3（ドライ）”が身を起こす衣擦れの音だけが空気に吸い込まれた。おれは左手をついて頭を上げ、結合部の穴の中を覗いた。
　絶縁体はハンマーの先にはついていなかった。
貼り付けが甘かったのか、揺れが大きすぎたのか、ステッカーは銅の台座の下のごちゃごちゃした回線部にまぎれて落ちていた。
「もう少しだったのに！」　“4（フィーア）”は激昂してどん、と床を叩いた。
　あのサイズの絶縁体は一枚だけだ。他はもう一回り大きい。“4（フィーア）”はほぼやけくそ気味にキット袋の中に手を突っ込んだ。「いいわよ。何度でもやってやるわ」
「いや…　その前に少しやることがあるだろうな」
“3（ドライ）”が立ち上がり、“5（フェンフ）”の置き土産のM-16を拾い上げて安全装置を外した。雑音のなくなった今、運転席の人物が降りて外から貨物室の入り口まで回ってくるのがはっきり聞こえたからだ。“4（フィーア）”もキットあさりをやめて積荷の間に突っ込んでおいたウージを構えた。
　おれも38口径を左手に持って入り口に向けた。しかし、ドアはいつまでたっても開かなかった。かわりに、どこからか甘いような煙たいような臭いが漂ってきた。舞台効果でたかれるドライアイスのスモークと似てる…　通気孔の方からだ。まさか。
「ガスマスクをつけろ！」“3（ドライ）”が叫んだ。しかし、早急に室内に充満した濃密な睡眠薬の効果の方が早くあらわれ、おれは一瞬にして睡魔に襲われた。二人もその場に倒れた。最初から床にいるおれの方が長く意識を保っていられたけど、遠く離れた積荷の方に寄せておいた装備の中からガスマスクを掴むには、おれはあまりにも怪我をしすぎていた。
　これで終わりか。爆弾も結局処理できず、みんな眠らされ、おれたち3人はその他の被害者たちと一緒にDI-5で殺されるんだろう―――そして、隊長や “1（アイン）”たちまでもが罪を着せられて同じ末路を辿ることになる。すまない、みんな。おれがふがいないばっかりに。もしおれがもっと強くて、怪我なんかしていなかったら、せめて隊長たちだけでも生き残れたかもしれないのに。すまない、“3（ドライ）”、“5（フェンフ）”。疲れているところを助けにきてくれたのに。もしおれにもっと機転の効く頭があれば、処理なんか早々に終わらせて、とっととトラックを降りられていたかもしれないのに。すまない、 “4（フィーア）”。せっかく頑張ってくれたのに。もしおれに君を守れる力があれば、君をこんな目に遭わせることもなかった。

ミッション『Doomwatching』補佐：“2（ツヴァイ）”

『…ってなわけだから、おまえらは『どぶさらい』班が失敗したときのバックアップを―――』
　隊長からの無線はそこで切れた。なんだぁ？　えらく中途半端だな。そんなにここはレセプション悪いのか？
「かけなおしても全然繋がりませんね。たぶんリーネ広場周辺には電波妨害でもあるんでしょう」“10（ツェン）”が肩を竦めた。
　なんだよ、ってことは『どぶさらい』の奴らを見つけるのはほぼ不可能だってことか？　どうやってバックアップなんかすりゃいいんだ。そういや、その前に隊長がしゃべってた内容もぶっとんでたな、おれたちが皇妃側のスケープゴートだっていう推理はなかなかどうしてシュールだぜ。要するに、爆弾を止めることがおれたち自身への救済策、要するにこの事態をすっきり解決する鍵になるのは分かった。でもさ隊長、問題提起を投げかける前にやることがあったはずだよ。一言でいいから後部座席でぶすっくれてる野郎のご機嫌取りを忘れないで欲しかった。
「なあ“1（アイン）”、おまえの無線はどうだ？」
「使いたいなら使え。私には彼と話す用はない」
ときたもんだ。まったく、たまったもんじゃないね。そりゃ四六時中顔つき合わせてるんだ、喧嘩の一つもするなとは言わないさ。でも隊長、“1（アイン）” と一緒にいるおれたちのことも少しは考えてくれたっていいじゃないか？　だって背後から今にも二丁ウージ一斉掃射でもおっぱじめそうな毒電波オーラがゆんゆん漂ってくるんだよ、もしかしてそれが無線を妨害してるんじゃないか疑うほどだよ。“10（ツェン）”とさえ下手な馬鹿話もできないし、なんか動いちゃいけないような錯覚に襲われるし、息吸う音もたてちゃいけない気もする。おれは静かに怒り続ける人間ってのはどうも苦手なんだ、だって怒るんなら怒るで愚痴るなりヤケ食いするなり子供電話相談室に電話かけるなり何でもすればいいだろ？　その方がよっぽど取り付くシマがあるんだからさ。でも後部座席の“1 （アイン）”は目つきだけで懲役10年くらいは軽く食らいそうな顔したまま一言もしゃべらないし微動だにしないんだ。おっかねえ。半端じゃなくおっかねえよ母ちゃん。
　16時42分。おれたちは予定より12分遅れてリーネ広場に到着した。16時にさしかかったあたりから少しハイウェイが混んできたからだが、まあ、こんなこともあろうかと30分早く出発したんだからほぼ予定どおりだな。ちょっと離れたところから見ても、リーネ広場は来週からはじまる千年祭の準備でごった返していて、出店やら風船やらの賑やかなお祭りらしい雰囲気が漂ってきてる。隊長の奥さんが乗ってるらしいアルファロメオが広場の駐車場に入ったのを確認し、“10（ツェン）”は広場の入り口から少し離れたところでアキュラを停めた。
「じゃ、“1（アイン）”先輩はここで降りてください。おれたちは50ヤード離れて援護します」
“1（アイン）”は無言のままばたん！というものすごい音をたててドアを閉めた。その後ろ姿が雑踏に紛れたかのように見えたところで“10（ツェン）”とおれは顔を見合わせて溜息をついた。
「“1（アイン）”が戦場外で7、8人殺っててもおかしくないと思うのはおれだけか？」
「いや、普段の“1（アイン）”先輩はぶち切れたら誰かに当たるなりさっさと原因を叩くなりしてストレスをなるべく発散しようとしますよ。今回はなんつーか、怒りが沈着してましたね。でもまあ、怒り続けるのって難しいですから。すぐにいつもの“1（アイン）”先輩に戻ってくれるんじゃないですかね」
「いや、あいつが何もやらかさないうちにブタ箱にぶち込むべきだっておれの本能が言ってる。でっち上げよう、この車からコカインと猫の死体が大量に発見されればあいつは少なくとも7年はハコつきの精神病棟から出て来れない。汚れ仕事は後輩の担当だぜ“10（ツェン）”、任せた」
「“2（ツヴァイ）”先輩の冗談っていまいちシャレになってないっていうかダークですよね。おれが盾にしたアンナちゃんでしたっけ？　彼女を悼むのはいいですけど、ヘレガちゃんのかわりにやっときゃよかったとか言うのはやめましょうよ。もう死んでるんだから」
　“10（ツェン）”は駐車場ではなく、最寄の路上に適当に寄せて車を停めた。ドアを開けて降り立つと、どうにも身体が重い気がした―――おれと“10 （ツェン）”は軽戦闘服の上からでかめの背広を着てるからな。少し多めに武器を装備してるし、どうもごてごて着膨れしてる。あーあー、なんでおれは色男を台無しにするような格好ばっかりしかできないんだろう、もし広場に輝くばかりの美少女がいたらどうするんだ？　情緒不安定な野郎のお守りなんかしてる場合じゃないぜ。“1（アイン）”、すまんがその場合は自分の身くらい自分で守れ。目からビーム出しそうな今のおまえのことだ、視線だけで敵撃退どころか海を割って退路も確保できるだろう。
　おれと“10（ツェン）”にはそんな芸はないからな、ハンドガンだけじゃなくてもう少し本格的な装備が必要だ。おれはトランクに入れてあるM-16や丈を詰めたショットガンなんかの荷物を入れたスーツケースを取り出そうと車の後ろに回った。しかし、“10（ツェン）”が運転席のレバーを引いてトランクを開けると、途端におれは口をあんぐり開けて呆然とするはめになった。
いやもう、何の冗談かと思ったよ。だって、「トイレ！」とかなんとか甲高い声を響かせて、トランクから金髪のガキんちょがいきなり飛び出してきたんだよ。これが夢かと思わずにいられるかい？　自分でも“こんな名画あったよな？”と思うくらい口を縦にびろーんと広げてぽかーんとする以外何もできなかったさ、でも“10（ツェン）”がすぐに運転席からすっ飛んできてどこかへ走って行こうとしたガキんちょの後ろ首を掴んだんだ。
「おい、おまえ！　いつの間に忍び込んでたんだ！」
少年は涙目になって抗議した。「緊急事態なんだよ！　お願い行かせて！」
　なんてこった。よく見たら、このガキんちょは髪の色以外隊長にそっくりじゃないか。
“10（ツェン）”もそれに気付いたみたいだった。「もしかしてイシト君か？　先月一緒に釣りに行った？」
「あ、“10（ツェン）”だ！　体が大っきいのに頭の中身が10歳だから“10（ツェン）”なんだよね？　こっちのおじさん誰？」
その一言で一気に現実に引き戻された。「お兄さんだ、ズボケ小僧！　“10（ツェン）”、とりあえずこいつを託児所へ連れてこう」
「やばいっすよ先輩、面識のない人に預けて何かあったらどうしようもないですよ」
「じゃあ、隊長の実家は？　15分くらい走ればあるはずだぜ、そこで預かってもらおう」
「それもやばいっすよ先輩、時間がない上にもし留守だったら無駄足ですよ」
「そうだ、隊長の奥さんが来てたじゃないか？　彼女に預ければ…」
「だめ！　お母さんには絶対に内緒にして！　見つかったらお仕置きされちゃうもん！」
　おれは少年の鼻先をつまんでぐいぐい引っ張った。「わ・が・ま・ま・言・う・な！　ママのお仕置きとおれのおしりペンペンどっちがいいんだ、ヘチマ坊主？　一体なんのつもりでおれたちについてきやがった？」
「ついてきたんじゃないよ、隠れてただけなんだよ！」
「社会のルールその１、嘘ついたら針千本！　いいか？　かくれんぼなら便所に入って鍵閉めるなり便器に入って蓋閉めるなり何なりできたはずだ。車のトランクなんかどうやって開けた？」
　彼は上着のポケットから“1（アイン）”のアキュラのスペアキーらしきものを取り出した。
「ラインハルトの部屋にあったから少しの間だけ借りたんだよ」
「社会のルールその2、泥棒には木馬と蝋燭！　人のものを勝手に盗んじゃいけないってお父さんに教わらなかったのか？」
　まあ、肝心のお父さんは公然と盗みをはたらく人間の第一人者だけどな。“1（アイン）”は合鍵なんか盗まれたことにすら気付いてなかったし、こいつのこそ泥の才能は親父譲りの“8（アハト）”なみって言ってもいいレベルなのか、末恐ろしいガキだぜ。
「盗んだんじゃないもん。借りたんだもん。ラインハルトはマリィお姉ちゃんとベティお姉ちゃんが僕を着せ替え人形にしようとしたときの新しい隠れ家のために協力するって言ってくれたもん。お庭にラインハルトの車が見えたからトランクに隠れたんだ、でも閉めたら内側から開かなくなって、出られなくなっちゃったんだよ。そういえば、ここ、どこ？」
　おれにとっちゃ地獄の一丁目だよ。隊長、あんたは奥さんのことで“1（アイン）”と口論なんかやらかす前に家族全員をセント・グリフィス島の囚人監房にでも預かってもらうべきだった。まったく、家庭の事情を持ち込むのは勘弁してほしいぜ、“1（アイン）”が口から放射能吹きそうになる気持ちがよく分かったよ。こんなチビ助を連れ歩きながらまばゆい美少女ちゃんに偶然ばったり会っちゃったらまじでどうするんだ？　子連れだと思われるなんてたまったもんじゃない。
「いいか、とりあえずお母さんに預かってもらうからな。それからお父さんにも後で報告するぞ。どんだけきっついお灸すえられても文句垂れんなよ、元はといえばおまえが…　いででででっ!!!」
　悪ガキはおれの手に思いっきり噛みついた。おれは急いで彼の鼻を掴んでいた左手を引っ込めようとしたが、子供といっても容赦ない力で噛めば肉にくらい食いこむ。こ、小指！　小指はやめろ、ちぎれたらどうすんだよ！　詰めたみたいに見えたら美少女たちが怖がるだろ！
「おい！　“2（ツヴァイ）”先輩に何を…　ぅおっ!?」
　間髪入れずに彼は“10（ツェン）”の股間を蹴り上げた。“10（ツェン）”は顔を土気色にしてその場にうずくまった。自由になった悪ガキはおれの手を離して鉄砲玉のごとき勢いで駆け出し、おれたちの手の届く範疇外に出たところで振り返りざまにあっかんべーをした。
「僕をトイレに行かせてくれないおじさんたちが悪いんだからね！　緊急事態って単語も知らないなんて頭悪いんじゃないの？　学校行きなよ、バーカ！」　おれが何か言い返さないうちにガキんちょは風のように雑踏の中に消え去った。
こっ、こっ、こっ、こんくそガキがァァーッ！　奥歯に手ぇ突っ込んで銀紙ガチガチ噛ませたろか、おんどれぁぁぁぁ!!!
　おれは大人気ないなどとは思わないことにした。躾のなってないくそ生意気な性悪小僧をまともな社会のやり方で矯正するのはまっとうな大人の役目なのだ。どうせトイレにいるのだから、彼が出てくるところをとっ捕まえるのは簡単だろう。地面に正座だ！　足くずしたら渇！　泣くほど説教してやるぜ！
　そんなことを考えているうち、出店を準備中の人々や通行人が変な目でおれたちをぎろぎろ睨んでいることに気が付いた。奥さまたちはこっちに目配せしながらひそひそ話してるし、誰かが自転車に乗って巡回中のお巡りさんとこっちを指さしながら話してた。お巡りさんは警棒を抜いてこっちに歩いてくるし、それにつられて応援も寄ってきた。嫌な予感―――警官がぞろぞろ集まってくる―――
あの…　違うんですけど…　いや、確かにあの子ね、おれたちの車のトランクから出てきましたよ。確かにおれたちのスーツケースは金入ってるように見えるし、その実武器がいっぱい入ってますよ。服の下にも武装してるし、口論の末あの子がバーカとか言ってどっか行っちゃったわけですけど、おれたちは決して人攫いとか、営利誘拐犯とか、断じてそういうのじゃないです。あの子が勝手にトランクに入ってたわけで、お母さんのところへ連れてってやるって言ったら嫌がって逃げちゃったんです。うわ、本当のことなのに聞こえがまるで嘘くせえ！
　おれはいまだにうずくまっている“10（ツェン）”を引っ張って猛ダッシュでその場を逃げ出した。お巡りさんたちが追いかけてきた。恨むぜ隊長、おれは断然“1（アイン）”の味方だからな！

ミッション『Doomwatching』：“1（アイン）”

「ラインハルト、ここよ！」
　侍女アンドレアに日傘をさされ、私以外の誰もが幸福に見える賑やかな広場の鐘の前で、クロエ様は私に向かって手を振った。私は笑顔を返せないことが分かっていたので、本当は会わなくて済むなら彼女に会いたくなかったと思った―――今だけは。マテウス様と私の間に何があったかを話して彼女に罪悪感を着せるには忍びなかったし、あなたの我儘のせいで私はこんなにもひどい気分を味わっているのだと一方的に責め立てるには、私はあまりにもこの天真爛漫な女主人を敬愛しすぎていた。今だけはと思うのはきっと、次に会った時には必ずマテウス様から和解の申し出があるのではないかといまだに期待しているせいだろう。きっと、これ以上傷つきたくないならすぐにでも捨てなければならない希望だが―――電波の悪いリーネ広場にいる今となっては連絡を取りようもないが、さきほど私を無視して用件だけを淡々と述べる彼の態度には私に対する心遣いも憐憫も何も感じ取れなかった。それほどまでに私はどうでもいい存在なのかと思うと、悲しみを通り越して憎しみすら湧いた。私を任務に駆り立てるための建前ではなく、本心からすまなかったと言って欲しかった。そうすれば私の失言を詫びることができるし、辞めないで欲しいという言葉が聞きたかった。一時の逆上であっさり見限って弁解もなしとは、どう考えても私は彼にとって邪魔でしかなかったのだろう―――そう思わせないで欲しかった。なぜなら、彼が私を必要としてくれないのなら、私は何のためにこの生き方を選んだのかさえ分からないのだから。
「どうしたの、ラインハルト？　少し気分が悪そうに見えるわ」
「車酔いです」　私はクロエ様が差し出してくれたハンカチを敢えて受け取らず、腕時計を見るふりをして視線を逸らした。「遠乗りは久しぶりでしたので。放っておけばすぐに落ち着きます。急ぎましょう、礼拝が始まる前に席を確保しなくては」
　胸中で渦を巻く癇癪を振り払い、私は彼女の手を取って歩き出した。リーネの鐘の北正面で高々と天を仰ぐパレポリ最大にして最古のラナケス正教会は、 1000年目の祝祭の準備に湧く広場の中でも一際大人数でごった返していた。日曜礼拝ではないのにこれだけの動員数―――みんな皇妃が来ることを知っているのだろうか。参礼者は裕福そうなラナケス人が大半だが、それに混じってトルース町の地元民らしいパレポリ人もたくさんいた。貧乏そうなアカはいないが、よく見ればスチールカメラを首から下げている者、ビデオカメラ持った者、そして速記用具を持った者の三人組、要するに明らかにマスコミ関係者と思われる人間たちが多数参礼者に紛れていた。陸軍関係者は今のところ見かけない。しかし“2（ツヴァイ）”と“10（ツェン）”もまだ追いついていない。
「楽しみではなくて、ラインハルト？」　
きっと何も知らないであろうクロエ様は真夏日を浴びる向日葵のように顔を輝かせていた。
「何がでしょう？」
「あなたはエカテリーナさまがお歌いになるのを聴いたことがないでしょう？　それはそれは美しい声なのよ。きっと、天使の奏でる竪琴というものが本当にあったなら、あのような響きなのではないかしらと思うくらい素晴らしいの。わたくしはラナケス正教には詳しくないのだけれど、彼女の歌を聴くためだけにときどきここに訪れるのよ」
「それは楽しみです」　エカテリーナ皇妃…　そういえば、私に似ていなくもない。
私は二日前以前の彼女を知らない。新聞でしか見たことがない。私にとってエカテリーナ・エイゼンシュタイン・カイザーは、その存在によって思わぬ方向へ駆り立てられた人々の、その足跡に位置する人間だ。たった数時間の邂逅を経て導き出した私なりの彼女の横顔は、普通の少女にして孤独な女、誰かに必要とされることでしか自分の価値を見出せない共依存症患者―――私にもそっくりそのまま当てはまりそうなレッテルだが。できるものなら、平民に生まれさせてやりたかった。もしあのあどけない笑い声が嘘ではないのなら、幸せになること自体はさして難しくはないだろう。しかし、同時に不貞もこなすあざとさも併せ持ち、彼女の本質が私の好きになれるような女性であるかどうかは定かではなく…
「クロエさんじゃないか！」
　そのとき、第三者の闖入がまとまりのつかない思考を中断してくれた。顔を上げると、リーネの鐘の向こう側から、農作業用のつなぎを着た初老の男性が小走りに走り寄ってくるところだった。白髪に混じった黒髪といい、皺とともに目尻の垂れ下がった碧眼といい、見覚えがあった。
「まあ、ハインリヒさま？　ハインリヒお義父さまではございませんの！　こんなところでお会いできるなんて、なんて素晴らしい偶然なんでしょう。お変わりないようで何よりですわ、ご機嫌はいかが？」
　マテウス様の実父、ハインリヒ・ブライチャート氏はクロエ様の前で立ち止まってぜいぜいと息をついた。
「ご機嫌なんぞいいもんかい。うちのせがれはとうとう三くだり半か？　まったくあの馬鹿息子ときたら、嫁さんがこんな若い男と乳繰り合ってる時にやれ仕事だ、やれ忙しいとかなんとかまたぬかしとるとはな。あの分じゃわしより先にくたばっちまうだろうよ。くたばるといえば、マリアンの買ってきたポニーがさっそく車に跳ねられておっ死んじまった。冥福を祈ってくれんか？」
「もちろんですわ、お可哀想なポニーさま。でもこのラインハルトとわたくしは決して不純な行為に及んでいるわけではありませんのよ。今日はわたくしと目的地を同じにしているだけで、普段の彼はマテウスの従者なのですわ」
　3時間前までは。そう言おうかと思って踏みとどまった。
「従者？　おお、ディードリッヒ君か。すまんな、この頃どうも人の顔が思い出せん。どうせボケるんなら、マリアンがポニーを買うのに使った金額をきれいさっぱり忘れちまいたいもんだ。ところで、マルグレーテとエリーザベトの姿が見えないのはわしの目が耄碌しちまったせいかい？　それとも、そっちの傘持ったお嬢さんがどっちかなのかい？　孫娘がそこまででかくなったのに気付かないほどわしの頭がボケちまったってんなら、娘夫婦に厄介者扱いされる前にとっとと老人ホームへでも引越しちまった方がいいだろうな」
「お義父さまにはまだまだそんな心配はありませんわ、だってこちらはわたくしの従者のアンドレアなのですもの。マリィもベティもイシトも今日は家でお留守番なんですのよ。3人をここへ連れてくるのは来週のイシトの誕生日にするつもりですわ」
　ハインリヒ氏の顔が疑問に歪んだ。マテウス様が頭を急回転させるときに似ていた。「それなら、なおさらわしはとっとと荷物をまとめちまった方がいいだろうよ。広場の向こうっ側の噴水のあたりでがらくた市の準備をしとるんだが、イシトがさっきから手伝ってくれとるぞ？　なんでも、トイレに行っとったら連れとはぐれたそうだ。母さんに怒られないように匿ってほしいそうなんだが、マリアンは自分の拾ってきた商品を遠慮なくけなされてピリピリきとる。まったく、どっちが子供なんだか分かりゃせんわい」
「まあ、それは悪戯な子もいたものですわね。きっと、迷子になってしまって寂しい思いをしているに違いありませんわ。その子がイシトのふりをしていることに関してはお怒りにならないでやってくださいましね？　よろしければ、礼拝のあとにわたくしがそちらに寄って、親御さんを探すのを手伝って差し上げたいと思いますわ」
　17時2分前。私はクロエ様に向けて自分の左手首を右手人差し指で叩いた。
「それでは、お義父さま、わたくしたちは一旦これで。またこの後にお会いいたしましょう」
　クロエ様がスカートの裾をつまんで微笑み、私とアンドレアも軽く頭を下げると、ハインリヒ氏は思い出したように手をぽん、と打った。
「ああ、そうだクロエさん。そういえばあんたに頼みがあった」
「なんでしょうか、お義父様？」
「マリアンががらくた市に自分の旦那を出品するって言ってきかないんだ。よく働くいい若者なんだが、ポニーの一件でマリアンと険悪になっちまってな。マテウスがいらなくなったってんならあんたが是非買ってくれんか？」
「今のところは間に合っておりますわ、お義父さま」

　最大の盲点１：リーネ広場が電波のブラックホールだというより、誰かがの妨害を企てて私たちの連絡を絶っているのではないかという直感。ありえなくもない。“7（ズィーベン）”がいれば彼に対策を練らせることもできたが、いかんせん『どぶさらい』の連中はもううんともすんとも返事をしない―――リーネ広場にいるだけならいい。彼らに何かが起きたという予想は無視できないが考えたくもない。
最大の盲点2：17時前だというのにハイウェイのこの交通渋滞―――どうやら前方で玉突き事故があったらしく、処理が終わるのを待っていたら到底18時までになど到着できそうもない。私が18時までにスヴェトラーナと落ち合わなければこの葬送指輪によるDI-5の発動はないが、あの女狐のことだからかわりの案をいくつも持っているに違いないと思われた。結局私が間に合おうと間に合うまいと、DI-5はきっかり18時にはラナケス正教会のチャペル内で発動するということだ。私たちが加害者兼予定被害者の立場から逃れるには、爆破を阻止してマスコミが広場に集結していることを逆手に取り、黒幕の皇妃への殺意を公に証明する必要がある―――その人物はおっかないギリアン総督と一緒に必ずその場にいるはずだから。策は頭にあるが、私が間に合わなければ全ては水泡に帰すだけで終わってしまうだろう。何より、クロエをどうにかしなければいけない。先程の連絡の際、説明と対策案の後に“1（アイン）”と話すつもりだった。八つ当たりしたことを詫び、クロエとアンドレアを私の実家に向かわせるよう改めて頼むつもりだった。それを先に話しておけばよかったと後悔せずにいられない―――フラストレーションで右肩から血が噴出しそうだ。
「歩いた方が速いんでねか、隊長」　“9（ノイン）”が前に割り込んできた大型トラックに向けてクラクションを鳴らした。
「この車アストン・マーティンの最新型なんだろ？　飛行機能でもついてねえのかよ？」背筋に悪寒が走る。それに頭がくらくらする。最後の解熱剤が切れたのか、体温がどんどん高くなる。
「無理言わんでくんない。ハイウェイを降りて下道を行くだがか？」
「だな。チョッパーでも借りるか。降りてくれ“9（ノイン）”」
「了解だんし」
　“9（ノイン）”はウィンカーを出し、隣の車線に割り込もうとした。その時、バックミラーにものすごい勢いで車両の間を駆け抜ける一台のバイクが映った。黒いネイキッドのゼファー、黒い服、頭に巻いた包帯だけが白い。そのライダーの迷惑極まりない暴走行為は周囲の車両のクラクション攻撃を容赦なく買ったが、その都度彼は抗議するドライヴァーたちに「暇なら尺八でもしてやがれ！」などと品のない罵詈雑言を返したり中指を立てたりしつつ、一心不乱に前方に突っ走ってきた。
「“9（ノイン）”、おまえあれを“5（フェンフ）”だと思うか？」
「そうとしか考えられないのが恥ずかしいのんし」
「どうやって生き返ったんだと思う？」
「脚の長い女医さんにでも面倒見てもらったんでねか」
「まあ、不可解なことってのは起こるもんだよな」　私は彼が迫ってくるぎりぎりまで待ち、ゼファーの鼻先が車尾にさしかかったあたりで助手席のドアを思い切り開け放った。
　彼は急ブレーキをかけ、ほとんど後輪を宙に舞わせながらドアに激突する寸前で止まった。
「何てことしやがる、くそったれ！　他にやることねえならドーナツとでもファックして……　てください？　ちょっと、こんなところで何やってんすか隊長、リーネ広場に行かなくていいんですか？」
　私はドアを閉めてバイクの前に立ち、蘇った伊達男に向かって笑いかけた。
「三途の川の案内人はそんなに不細工だったのか？　二度と会いたくねえならヘルメットくらいかぶれよ、交通ルールってのは伊達に定められてるわけじゃないんだぜ」
「俺を殺したくないなら危ない真似はやめてくださいよ。しかもこの車アストン・マーティンじゃないですか？　下手に傷つけでもして俺が心臓発作で死んだら警察は隊長にちゃんと殺人罪を着せてくれるんですか？」
「打ち所は悪くなかったみたいだな、相変わらずのバカで安心した。“9（ノイン）”、俺は“5（フェンフ）”に便乗してくからすぐに追いかけてくれ。リーネ広場で落ち合おう」
「了解だのんし」
　私はゼファーの荷台に勝手に乗った。安定したいいマシンだ、これなら左手一本でも支えられなくはないだろう。
「ちょっと隊長、野郎同士で2ケツなんて冗談じゃないっすよ」
「盗難車だってばれても俺がいりゃごまかしてやれる。いいから走れ、時間がねえ」
　“5（フェンフ）”はほぼやけくそ気味にエンジンをかけなおした。さっきまで爆走していたのでアイドリングはすでに安定していた。彼はクラッチレバーを握り、ギアペダルを踏んでロウに入れ、スロットルレバーを回してエンジンの回転を急激に上げた。ゼファーはいきなり前輪を舞い上がらせて乱暴に急発進した。背後の荷台のとっかかりを掴んで重心を後ろに置いていた私の頭がぐらりと揺さぶられた。文句を言う気にもならなかったのは、自分に高熱があることを改めて思い知ったからだ。
「隊長、俺なんで死んだことになってんですか？」
「“6（ゼクス）”に“8（アハト）”に俺ときたからな。もうみんな癖になってんだろ」
「やっぱ“3（ドライ）”の願望の現れでしょうかね？　仲良くなれたと思ったんですけど」
「なれたんじゃねえのか？　あいつ泣いてたぜ」
「でも無線に出てくれないんですよ。“4（フィーア）”も“7（ズィーベン）”もみんなして俺のことシカトしてやがるし、俺ってそんなに嫌われてんですかね？」
「おまえの無線の電波がな。電話で連絡が取れる方法を考えておくんだった。そういや、なんだってトラックから落ちたりしたんだ？」
「アレクですよ。撃ち落されたんです。左耳の上かすっただけですけど、そこんとこの髪が根こそぎなくなっちまった上にだせぇ包帯巻かれてもう最悪っすよ。後で生えてきますかね？」
アレクサンダー・カッツェンバック。そんなところにいたか。「ひいじいさんを覚えてるか？」
「俺が3歳の頃亡くなったんでよく思い出せませんけど、遺影じゃてっぺんだけ禿げてました」
「全部剃っちまいな。中途半端に残ってたって見苦しいだけだ」
「ちょっと待ってくださいよ？　おじいちゃんにも親父にもちゃんと髪ありますよ？」
「残念ながら頭の毛ってのは3代ごとの隔世遺伝なんだよ。諦めたくないなら海藻でも食え」
「わかめ嫌いなんですよ。わかめ酒じゃだめなんですか？」
「試して効果があったら学会で発表しろよ。特許取ったら俺に奢ってくれるだろ？」
風の冷たさで頭痛が呼び起こされた。全身が凍るように寒い―――頭を使いたい状態ではなかったので、話し相手が“5（フェンフ）”でよかったと思った。このまま馬鹿な与太話を続けていけばスヴェトラーナのときのように意識を失う恐れもないだろうし、何より彼が生きていてくれたことが本当に心から嬉しかった。そして18時まであと1時間、このままのペースでいけばぎりぎり間に合うかもしれない。

ミッション『Doomwatching』：“1（アイン）”

　17時。陽がわずかに西に傾いているのに蒸し暑い。参礼者の熱気もあるのだろうが、よく見たら、この建物には窓がなかった―――ただのステンドグラスの一枚さえも。詳しい理由は歴史上、宗教上の由来に起因するらしいが、照明はすべて数百本の蝋燭に委ねられており、薄暗かったが音響効果は悪くはなさそうだ。クロエ様は扇子で扇ぎ始めたが、私は武器を携帯しているので上着を脱ぐわけにはいかなかった。
礼拝堂の中は約70メートル四方はある広大なもので、前列に席を確保しなければ演壇を見ることはできないだろうと思われた。何より、近くに寄らなければおよそ肉声など届かないに違いない―――面積に加え、美術関係の本でよく見かける天使の絵が描かれた天井は高さ30メートルほどもある。マイクでも使わなければきっとこのホール内隅々まで声を渡らせるのは困難だろう。とはいえ、歴史の趣を感じさせる厳かなチャペル内は今や300人あまりがすし詰め状態の満員御礼で、せめてクロエ様にだけでも席を見つけられるならあまり贅沢は言えないようであった。むしろ私は立ち見がいい。DI-5はこのチャペルに持ち込まれる予定だというから、私は壁を背にして敵の気配に気を配らねばなるまい。しかし、もしDI-5を見つけたら？　『どぶさらい』班と連絡が取れないから処理が終わっているかどうかも分からないし、マテウス様に行動策をもらう前に連絡は途切れてしまった。しかも、この大人数―――私にできる最善とは何だろう？　今ここで何か別の危険をでっち上げて（火事だと叫ぶとか）参礼者を追い出してしまおうか？　いや、外にいたマスコミのことを考えろ。何があっても悪者になるのは私たちなのだ。事件の立役者が私たちではないことを証明するには、実際に敵に行動を起こさせ、その上で阻止しなければならない。…どうすれば？
2階席への移動を考えていたとき、ちょうど都合よく広間の中心付近に二人分の空きを見つけた。「奥様とアンドレアはあそこへどうぞ。私は近くに立ちますので」
「そうね、立ち見ならもっと前にお行きなさい。エカテリーナさまはあなたの姿を見ることを楽しみにしているわ」
「私は奥様の傍につかせていただきます。聖歌を聴き終えたら一刻も早くこの教会の外へお連れしますので」
「わたくしは歌だけを聴きにきたのではなくてよ。エカテリーナさまを元気づけるまで帰るわけにはいかないわ」
「聴衆の中にあなたの姿を見るだけでも歌手としては光栄至極のはずですよ。終わり次第です。よろしいですね？」
　私が念を押してすぐに、聖歌隊の子供達が数人出てきて演壇を隅に押しやり、ピアノを演台の中心まで運んできた。黒いローブを纏った尼僧が楽譜を置いてそこに座ると、最前列から焔色の髪を結い上げた少女が出てきてピアノの前に立った。ベンチから熱狂的な拍手と歓声が飛んだ。
二日ぶりに見るエカテリーナ皇妃。親しみやすい柔らかなオフホワイトのドレスがそう見せるのか、最後に会ったときよりも数倍顔色がよく、溌剌として見えた。私がクロエ様とアンドレアを席に座らせて壁際に退くと、皇妃の視線が何かを探すように客席を舞った。私は小さく手を振った。彼女が気付き、口元を綻ばせて私に手を振り返した。しかし、数瞬後にはまた何かを探すように客席に視線を巡らせていた。
尼僧が伴奏を始めたところで、皇妃の彷徨と参礼者の歓声はおさまった。誰もが期待で固唾を飲んで見守る中、若きパレポリ皇妃はその澄んだ声をチャペルの隅々まで響き渡らせた。

全能者である神、主よ
あなたの業は偉大で、驚くべきもの
諸国の民の王よ
あなたの道は正しく、また真実なもの

　ラナケス語ではあるが、雪の底から芽を出す一本の寒菫のように気高く、それでいて拡声器なしで深淵のように深く拡がる声は広間の誰もを魅了しただろう。きっと、私までもを―――正直、これほど圧倒されるとは思わなかった。皇妃が美しく見えたのはこれがはじめてだった。

見よ、あなたはすぐに来る
あなたは報いを携え来て、それぞれの行いに応じて授ける
あなたはアルファでありオメガ
最初の者にして最後の者
始まりであり終わり
わたしは衣を洗い清めるひこばえ
命の木に対する権利が与えられるように、門を通って都に入れるように
父たるあなたの恵みがすべての者と共にあるよう願う者

「きれいな声ね、素晴らしいわ」
　薔薇の香りとともに耳元に届いたその声に、私は一気に緊張を取り戻した。振り返るとやはりそこにはスヴェトラーナ―――貞淑な淡い紫色のドレスを着て顔にヴェールをかぶり、一見するとただの参礼者の一人だが、私にぴたりと身を寄せて誰にも見えない角度から腰に堅い金属の塊を突きつけていた。感触からサイレンサーの先端だと分かった。
「皇妃さまはあなたをいたくお気に召したみたいよ。でもまだゲイブリエル・レガットのことを忘れられないみたい。自分を殺して皇族らしい威厳ある振る舞いをするにはまだ若すぎるのね。あなたがいっぱしの軍人になってもマテウス・ブライチャートの背後から離れられないのと同じだわ」
琴線に触れた。「残念だが私と彼はもう何の関係もない。何が望みだ？」
　スヴェトラーナは私の首元に手を差し入れ、偽物の指輪をつまみ上げて一瞥をくれてからまたそれを私の襟の中に落とした。
「あなたにご主人様の名代してほしいだけだったのだけれど。わたしたちは17時に待ち合わせをしていたの、でもあの人の姿はまだ見えないわ。女を待たせるなんてデリカシーに欠けることはしなさそうな人だから、あなたが代わりなんじゃないかって疑ってたところだったのよ。でも違うのね、どうして？」
怒りを誘発する天才―――乗るな。「黙れ。DI-5はどこだ？」
「彼にもう必要とされなくなったなら、あなたがここにいる意味はないはずよ。違うかしら？」
「遠隔起爆装置はどこだ？」
「気持ちは分かるわ、役に立ってみせれば彼もあなたの復帰を認めざるをえないものね。でも、そんなに一方的に切り捨てられて、彼が憎くないの？」
「爆弾はどこだ？」
「意地っ張りなのね。もしかしたら、あなたから辞表を叩き付けたのかしら？　止めて欲しかったんでしょう？　でも、思い通りにならなかったから拗ねてるのね？」
“おまえ、やっぱりそのすぐかっとなる癖直した方がいいな。相手の挑発に乗るような奴は長生きできないぜ”
「私に何か用でもあるのか？　それとも世間話がしたいだけなのか？」
　女狐は一瞬だけわずかに目を見開き、そして薄く笑った。
「わたしはあなたを助けたいだけよ。あなたは今までの人生をかけて彼に尽くしてきたんだもの、見返りを受け取ってしかるべきだわ」
　次の瞬間、沸騰寸前だった癪が驚きにとって代わった。
スヴェトラーナが手のひら大のコンピュータ端末、要するにDI-5の遠隔起爆装置を私に向かって差し出していたのだ。何のつもりだ？
「DI-5の爆弾本体には、奥深くにもう一つの時限装置を搭載しているの。何もしなくたって18時には必ず爆発するようになってるわ。でも、これを使えば止められる。分かるでしょう？　あなたたちは勘違いしていたけれど、これは起爆装置じゃなくて避爆装置なのよ。爆発を止めるのは本当はわたしの役目だったのだけれど、あなたがご主人様にいいところを見せたいのなら喜んで譲るわ。指輪の文字列をスキャンに乗せて皇妃さまの生年月日を入力するのよ。それでエンターを押せば爆弾のすべての機能が停止するわ」
　マテウス様の推理とまったく逆だ。頭が混乱した。「貴様の言うことなどを私が信用するとでも思うか？」
「信じる信じないはあなたの自由よ。いらないのなら受け取らなくてもいいわ。でも、考えてもみてね？　わたしが嘘をついたことなんかあったかしら？　ああ、これはご主人様に聞くべきだったわね。彼は嘘ばかりついていたけれど、わたしはいつでも本気だったもの」
　女狐は私を責任感と混乱の間で苦しめるのを楽しんでいた。彼女の言葉は何一つ信じられなかったが、片やただの推理―――誰を信じれば？
　7“（ズィーベン）”だ。彼さえ見つけられれば答えが分かる。どこにいる？
私は女狐の手から端末をひったくり取った。「DI-5はどこにある？　もうこの教会の中に持ち込まれているのか？」　
その傍に『どぶさらい』班がいる確率は5割だ。賭けられなくもない。
「探してどうするの？　あなたにはそれがあるわ。あとはマテウス・ブライチャートが間に合うように祈るのね。わたしも彼にもう一度会えるように祈ってるの。今のあなたなら同意してくれると思うけど、本当に人をやきもきさせる男だと思わない？」
　腰から金属の感触が離れると、礼拝堂中の参礼者が総立ちして割れんばかりの拍手と嵐のような歓声を上げるのはほぼ同時だった。振り返ると、歌唱を終えた皇妃が笑顔でステージを降りるところだった。その視線の先には私がいたが、私が拍手をしていないことに気分を害したのか、彼女はすぐに他の参礼者たちに手を挙げて応えた。私はほとんど聴いていなかったことを胸中で詫び、スヴェトラーナに向き直った。
　女狐はいなくなっていた。
　まだ遠くには行っていないだろう。私はクロエ様の側を離れるわけにはいかないことを軽く意識しながら急いで聴衆を見回した。そこではじめて、一階出口付近にゲイブリエル・レガットがマネージャーらしき小太りの男と一緒に、そして2階席の中央にパレポリ皇帝カイザー・ミュゼが側近たちに囲まれて座っているのに気が付いた―――どうして彼らがここに？

ミッション『どぶさらい』：“3（ドライ）”

　睡眠薬を吸ったにしては目覚めは遅くなかったように思う、ただ自分がどこにいるかも分からないとあっては完璧に頭まで醒めたわけではなさそうだ。ここはどこだろう？　光一つささない無明の闇、すぐにでも塵肺アスベストになりそうな埃と黴、すぐにでもペスト菌に感染しそうな鼠の足音、すぐにでも人生の終わりが見える後ろ手にかけられた手錠の感触。これが“5（フェンフ）”の亡霊の見せる夢でないなら、きっとおれは悪夢よりも更にたちの悪い状況下に置かれているに違いない。
　おれは腹筋の力だけで上体を起こし、縛られた足首を伸ばして周囲を探ってみた。ブーツの爪先が何かに当たり、それがどうやら人間らしいと分かると、おれは軽く蹴ってその人物に話しかけてみた。
「おい、“4（フィーア）”か？　“7（ズィーベン）”なのか？　起きろ」
「だめですよ、シュワンクマイエルさん。死者を冒涜しては」
　声と同時に明かりが灯った。目をやかない程度の小さなライターの炎がおれの左手側から2メートルも離れていない距離にあり、その淡い明るさにより今おれが蹴っていたのが皮と骨だけの干からびた死体だということを教えてくれた。しかも、どこを見回しても目に入るのは床に寝そべった死体と壁の段差に横たわる死体で、どうやらおれはラナケス正教会の地下にあるパレポリ唯一のカタコンベ内に連れて来られたらしいということだけは理解できた。しかし、“4（フィーア）”と“7（ズィーベン）”のかわりにアレクサンダー・カッツェンバックがここにいて、おれたちから取り上げた武器の小山の上に座ってライターの炎を蝋燭に移している理由は理解できなかった。おれは足を引っ込めてそちらに向き直った。「おれの仲間はどこだ？」
　アレクが蝋燭を冷たい土の床にたてた―――このようにちろちろと小さな炎で顔の陰影が揺れる場面では、整えば整うほど人の顔は不気味に見える。彼の美貌が外科医の手によるものではないと確信が持てるのは、アレクの顔は端正すぎて存在感がまるでなかったし、かといって幻影のような儚さを醸し出したいのなら、おれなら何より先にその魚類のように隙間の空いた歯並びを矯正するからだ。
「仲間はどこだは僕のせりふですよ、シュワンクマイエルさん。あなた方はヘレガを、サーシャを、アンナを、そして他の僕の仲間を壊滅状態に追い込んだ。確かにこれはエカテリーナ陛下がラナケスから嫁ぐ際の3年前にスヴェトラーナが依頼を受けて計画したことで、このような邪魔が入ることは予測されていました。だから対策班にレニンシュタール少佐が任命されてすぐ“和平”の言葉を使ってギリアン総督を抱きこんだのに、あなた方下品なパレポリ人ときたらゴキブリなみにしぶとく僕を煩わせる」
　“下品”の一言でぴんときた。「“5（フェンフ）”を殺したのはおまえだな」
「あなたを殺すのも僕です。その死は無駄にはしませんからご安心を。ただそこに寝転がっていればいいのですから、サーシャたちをあんな目に遭わせた報復としては我ながら寛大だと思いますよ」
　アレクはおれたちの武器を持って立ち上がり、背を向けて歩き始めた。そこに寝転がっているだけで死が訪れるということは、DI-5はこのカタコンベ内に持ち込まれているということだ。おれは身をよじり、せめて足枷だけでも外れることを期待してあがいた。
「おれのけつにキスしろ、淫売野郎！　縛ったくらいで勝ったつもりか？　今のうちにおれを殺しておけよ、さもなきゃおれが貴様を肥溜めに頭まで浸からせて殺してやる！」
　アレクは振り向きざまに笑った。
「あなたのことは気に入っていたんですよ、シュワンクマイエルさん。元とはいえお医者様で、さぞかし品のいい上流階級の方かと思っていましたから。でも実際は違うようですね、それとも感化されやすい性質なんですか？　ご自分でもお気づきと思いますが、あなたの話し方はあの下品なフランツ・カウフマンさんとそっくりですよ」

ミッション『どぶさらい』：“4（フィーア）”

　最悪…　つーか、本当にこれ以上やばい状況なんて思いつく？　仲間とは離ればなれ、手錠と縄でがんじがらめ、武器も取られて丸腰だし、とどめにここは地下墓地の中。真上の天井に羽目板があってそこから光が少し漏れてるから分かったけど、敵さん何のつもりなの？　あたしを精神的に追い込んで死にたくなるのを待ってるの？　確かにショック、だって300年前の死体と一緒くたに転がされる乙女ってどーよ？　野郎どもはともかく普通女の捕虜ってのはさ、「おとなしくしてりゃ悪いようにはしねぇからさ」的な状況に追い込まれて然るべきでしょうが。んでアホな一番手の股間蹴って服奪って逃げ出す、と…　昔の漫画のお約束みたい？　まあそんなに都合よくいくわけないか。
　ところで、何時間寝てたんだろう？　18時まではあとどれくらいあるか分からないけど、とにかく一刻も早く縄を解いて爆弾を見つけてどうにかしなきゃいけないことくらいは分かる。あれ、できるかな？　バレリーナ時代に柔軟体操でよくやった（ふざけてだけど）、肩の関節を外して背中からおなかまで腕をぐるっとくぐらせる芸当。試してみよ、時間ないし。よっと、よっと…　できた！　楽勝ね。
　さて、足首の縄を切らなきゃ。ナイフは取られてるし、ここは墓荒らしでもする以外に道はないわよね。この仏ちゃんたち、何か鋭利な刃物系の遺品持ってないかな？　うんと昔の戦士とかなら棺の中に剣とかが一緒に埋葬されてたりするはずなんだけど…　ていうか、この人たちがそんなに昔の人なのかどうかは知らない。ついでに言っちゃえばそういうのは大抵もう美術館に飾られちゃってるのは常識。でも、ごめんね、少し調べるだけだから祟らないでね？　死んでまで役に立ってくれる死体さんがいたら骨まで愛してあげるからさ。
　あたしはバレエで培った爪先立ちでひょこひょこ跳ねながらその辺に置いてある棺を片っ端から開けてみた。棺桶その１：やたら豪華な金糸のローブを着てるだけで遺品なし。棺桶その2：尼さん。棺桶その3：うへえ、この仏ちゃん頭ない。棺桶その4：ちっちゃい女の子。結論：毒ガスにやられる前に絶対肺の中に黴が生えて死んじゃう。あ、そういえば、あれって…
そのとき、あたしの背後から硬い靴音が響いてきた。振り返ると、目が懐中電灯の光をまともに食らってやかれた。
「ディーデリッヒ一等兵だな？」　あちゃー、このダンディなジェントルマン・ヴォイスは秘書課にいた頃よく聞いたわ。
　あたしは2秒目を閉じて視界を取り戻し、あたしのいる小部屋の入り口に立っているおっさんに向き直った。物腰が静かで一見とっても紳士なリーデルバッハ大将。確かにぱっと見はシルヴァーグレイで部下の信頼も厚いけど、でもその実体はとってもプロな必殺仕事人なのよね。しかもあたしみたいなか弱い女の子相手にこんな権力者が遣わされるってありなの？
「リーデルバッハ大将、手錠を外していただかないと敬礼できません」
　大将はあたしの手が背後ではなく前にきていること、そして荒らされた棺桶群に視線を走らせてから銃を抜いた。
「本当はDI-5の使用前には始末しないことになっているのだが。どうやら君はレニンシュタール少佐がいつか言っていた通りのやり手らしい。すまんが要注意人物は消すことになっているんだ、動かなければ一撃で仕留めてやろう」
　ちょっとぉ、隊長が大将の奥さんをエイとブルテリアの異種交配だとか（離れ目ってこと？）スパゲティ味のミミズ食った方がましとか言ったから部下のあたしにとばっちりが来たってわけ？
「そのような遠くでは万一の場合外しかねません。もし大将殿に死にゆく兵士への慈悲がおありなのでしたら、せめて3ヤードほどの距離へ来ていただけないでしょうか」
「いいだろう」　大将はあたしにゆっくりとした足取りで近づいてきた。周りに罠を張ってないか確認してるみたいだけど、場所が場所だけに、そんな歩き方されたら斧持った処刑人が近づいてくるみたいに見える。やだなあ、こんなに寒いのに脂汗流れちゃう。
　大将はほぼぴったり3ヤードの位置で止まり、あたしの頭に向けて銃を構えた。「何か言い遺すことがあるなら聞いてやろう」
「頭は撃たないでください…　大将殿に女の顔を傷つけないだけの常識がおありなのでしたら」
　案の定、大将は銃口をあたしの心臓に向けた。
　あたしは戦闘服のジッパーを下ろし、ちょっとストリッパーっぽいくねくねした身振りを加えて前身ごろの布を脇に押しやった。
「何をしている？」
「両親への遺品を血で汚したくないので…」　あたしは中に着た薄手のキャミの襟を下げ、ブラのフロントホックを外した。
「下着まで取る必要はない」
「これも遺品ですので…」　とかなんとか言いながら、あたしはしっかり大将の目があたしの胸に釘付けになってるのを確認した。
「では、どうぞ。これで思い残すことはありません…」
　大将は撃つのをためらった。
「大将殿…　撃たないのですか？」
「…そのままではこの世に未練が残るのでは？」
　あたしは大袈裟に顔を赤らめてキャミから透けて見える自分の胸を手で覆った。「やだ！　あたし…」　そして、その場にしゃがみこんで潤み目で大将を見上げた。
「思い残すことがないなんて嘘なんです…　ただ、大将殿にこの世の名残を惜しんでいただけるなんて、そんなおこがましいことを言い出せなかっただけなんです。だって、あたし…　これが人生の終わりなんだって考えたら…」
　大将の喉がごくりと上下した。「最後に一度だけ、したくてたまらなくなっちゃったの…」
　案の条、大将は銃を収めてあたしに覆い被さった。「それくらいの望みなら、叶うまで待ってやらんでもない」
　おいおい、いきなりそうくるか？　大将はあたしのベルトを外し、後ろ向きに壁に押し付けてから自分のベルトも外した。ちょっとちょっと、縄、縄！　縄くらい解いてよ！
「後ろはまだだめ、前から来て…」　あたしは顔だけ振り返って言った。
　大将はあたしの身体を反転させた。それと同時に、あたしはちっちゃな女の子の死体から拝借しておいた髪飾りの長く尖った柄の先端を彼自身に突きつけた。大将の顔がはっと青ざめた。
「壁に手をついて後ろを向いて。さもないと息子の命はないわよ」
「ディーデリッヒ、貴様…!?」
　あたしは髪飾りが大将の皮膚に少し刺さるくらいに手に力を込めた。「3秒よ、はったりじゃないことを証明するわ。3、2、１…」
　大将はカウントが0に落ちる直前に壁に手をついた。まったく男って泣けてくる生き物ねー、お家にバリウム味のヨーグルトの方がましな離れ目の奥さんしかいないからって、陸軍きっての必殺仕事人ともあろう者がこの場面で自分のちっぽけな占い棒（唐辛子大）に導かれるまま行動することもないでしょうに。乳首なんて寒くたって立つのよ、ばっかじゃないの？　それなのにあんな演技に騙されるなんてさ、あたしに軍人やめて女優を目指せって言ってるようなもんよね。
あたしは彼のポケットからナイフを抜いて足枷の縄の結び目を切り、その縄で大将の足をきっつーく縛った。幸運なことに手錠の鍵も見つかったから、あたしは自分の手錠を外して大将に後ろ手にかけた。やだ、なんか変態っぽくない？　興奮しちゃう、ついでに脱がせちゃお♪　銃も弾薬も懐中電灯もいただき、っと… 　よし、これで丸腰になったわね。
　あたしは丸裸の大将をちっちゃい女の子の死体ちゃんの棺桶に蹴り込んで蓋を閉めた。「おい、何をするディーデリッヒ!?」
「あたしの命の恩人なの。後でお礼参りに来たときに出してあげるから、それまで彼女のご機嫌取っててくれない？」
「こんなことをして許されると思うな、一等兵！　ここから出せ！」
「そんなに暴れたら祟られるわよ。若い女の子と一緒にいられて嬉しいでしょ？」
「後生だからここから出したまえ！　ひっ…　死体の眼窩から蛆が…!?　肋骨の間にも百足が…!!」
　さっすがあたしの命の恩人ちゃん、虫にまで大人気なのね。あたしも愛してるわ☆　“3（ドライ）”と“7（ズィーベン）”を見つけて爆弾を解除したら、新しい髪飾りとお供え物いっぱい持ってまた来るわね。それまで大将を怖がらせでもして暇潰ししててねんｖ