パレポリアン・タブロイド13

ミッション『どぶさらい』：“7 （ズィーベン）”

　汗でレーザー・バーナーを握る手が覚束なくなった。分かってはいたよ、DI-5をおれたちの敵と成り果てた軍の施設に持ち込むなんてできっこないって。でも、これが作動したらパレポリ中の人間、いや生物が死滅するんだ。全市民にいき渡るようにガスマスクを生産し、届け、動植物は非難させ―――何日かかるだろう？　軍の人間だって自分の家族が死ぬのを見るのは我慢ならないはずだ。それを話せばきっと上層部も協力してくれるんじゃないか？　パレポリの命運をこの手に握るなんておれには荷が重すぎる。おれ一人の命くらいなら賭けに負けてもまだ諦めがつくかもしれないけど、おれの一瞬のミスで何千万人が命を落とすなんてことを考えたら、今すぐトラックごと抱えて科学庁にすっ飛んでいきたくもなる。
「大丈夫よ、中身がなんであれ外側はただ電気と金属でできてるだけなんだから。あんたはそのテのエキスパートで、解除の仕方もわかってるわけでしょ？　やればいいだけよ。簡単よ」
　“4（フィーア）”の声はあくまでも朗らかだった。無責任にも聞こえたけど、おれは少しだけ元気付けられた気がして、額の汗をふき取りながら手のひらをジャケットになすりつけた。
「本当に簡単だって思えてくるまでその調子で話しててくれる？　できれば屋根の上じゃなくてここに来て」
「あたしが帰ってきたらね。今“3（ドライ）”と“5（フェンフ）”が助っ人に来てくれるじゃない？　ここって内側からしかシャッターが開かないの。迎えに行ってくる間少しだけ留守にするわよ」
「ちょっと待ってよ、おれを一人にするの？」
「すぐ戻るわよ。あんたなら大丈夫よ」
「お願いだから行かないでよ。おれ一人じゃこんなことやってられない」
「“7（ズィーベン）”、心細いのは分かるけど、あたしも心細いのよ。あたし一人じゃ何人もの刺客からあんたを守ってあげられないわ。無線を入れっぱなしにしてて。今度は怒鳴らないから。作業の邪魔にはならないでしょ？」
「無線じゃなくて傍にいてよ。おれには君が必要なんだ」
「そのせりふは前向きに検討しとくわね。この件が片付いたらワインでも空けながらゆっくり話しましょ」
　彼女がそう言うなり、かたり、と軽戦闘服のブーツがコンクリートの地面を踏む音がして、屋根の上から人の気配が消えた。そのまま“4（フィーア）”の気配は足音もないままどんどん遠ざかり、やがておれは耳が痛いほどの静寂に包まれた。
　自分の心臓の音が聞こえた。孤独な、孤独との戦いだった。集中しなければと思えば思うほどおれの注意は散漫になって、刺客でもお化けでもなんでもいいから出てきてくれたらいいのにとまで思うようになった―――集中するんだ、目の前の爆弾に。これができるのはおまえだけなんだよ、ヨハン。
　おれは3秒間目を閉じ、3秒間何も考えないように努め、3秒後に目を開けた。すると、目の前にあるのは人類を脅かす殺戮兵器じゃなくて、ただの機械じかけの神経ガスに見えた。簡単だよ、ヨハン。いつもいじってるコンピュータ端末機の方がよほど精巧じゃないか。
　手の震えがだんだん収まってきた。おれは右手に持ったレーザー・バーナーをケーブルの上にかざし、左手で支えた。5本ほどのケーブルが紐で束にされている―――赤、青、黒、白、黄色。黄色の線の外殻ビニール質だけを焼き切り、外からの電力供給に繋ぐ。これが表側の2箇所の電源のうち銀色の方の命綱だから、めいっぱいの電圧を与えて電源本体をショートさせる。大丈夫―――集中して―――これだけを―――焼く。
　その時、トラック全体ががたり、と大きく揺れ、おれの手が大きくブレてバーナーのスイッチが最大出力に入ってしまった。派手に火花が飛び散り、おれは目をやかれた。しばらく目を閉じて視界に光を取り戻すと、最初に目に入った光景は5本とも全部切れたケーブルだった。
　とうとうやってしまった！　すまない、みんな！　おれは瞬時に神経ガスを全部吸い込んで責任を取る覚悟を固めた。…しかし、いつまで待ってもパレポリの破滅の瞬間は訪れなかった。なんでだ？　ブービートラップは4本も切れてる。まさか、これ全部がフェイクだっていうのか？　フェイクのフェイクだってのか！　そうとしか考えられない。ちくしょう、やられた!!
　要するに、手の届くところにある処理できそうに見えるものは全部時間稼ぎなのだ。たぶん表側で本当に解除が必要なのは人間が触れると起爆装置が作動するセンサーくらいだ。だから、この爆弾を止めるには、リモコンを壊すか、奥の奥まで手を突っ込んで、リモコンが爆破の命令を出したときに繋がる電路の間に非金属性の物質を挟んで食い止めるかだ。リモコンを持ってる人物なんて今さら探しようがないじゃないか。結局、最初からセンサーを破壊して手を奥に突っ込むしかこれを止める方法はなかったんだ！　まんまと騙された。でも、落ち着けヨハン、まだ時間はあるんだから。
　おれは歯噛みしたいのを堪えて、センサーを壊す方法を考えようと努めた。しかし、妙に基本的な雑念を払うことができなかった―――さっき、トラックが揺れたのはどうしてだ？
　おれは銃を抜き、無線のインカムを口元に持ってきた。「“4（フィーア）”、応答して」
　その瞬間、おれの声に反応したように天井から弾丸が降ってきてDI-5をかすめ、床に積んであったヘロインの袋を破った。おれは木箱を飛び出し、なるべく爆弾から遠ざかろうとした。でも、ずっと座りっぱなしだたために足がしびれていてろくに動かず、おれは結局貨物室の中央で立ち止まって天井に向けて2発撃った。その位置に3発返ってきた。かろうじて避けたが、おれの逃げ場はなくなった。
「“4（フィーア）”！　敵襲だ！　すぐに加勢を！」
　天井から一点集中の弾丸が5発放たれ、おれの影を縫いとめた。それと同時にドアのかんぬきが外される音がし、おれはそっちに気をとられた。
　ドアが開けられ、外にいた黒服の刺客の放つ銃弾がおれの左膝を貫いた。倒れたところへ、天井から降ってきた二発が右の二の腕と手の甲にめり込んだ。おれは左手に銃を持ち替え、天井に向けて弾丸を全て撃ち尽くした。短い悲鳴と人が地面に落ちる音がしたが、ドアの外にいた刺客への対抗手段は考えるまでもなく何もなくなった。顔を少し上げると、赤外線スコープをつけた暗殺者がおれに向けてM-14の引き金を振り絞るところだった。ここでおれが死んだらどうなるんだろう、誰もDI-5の解除をできる人間がいなくなって、でもおれが生きてたところで右手はもうバーナーを握ることもできず……

ミッション『どぶさらい』：“4（フィーア）”

　冗談でしょ？　ハヴィランド運送の地理を簡単に説明すると、通りに面した前庭に25階建ての本社ビル、それを取り囲む形で蹄鉄型の平屋の車庫、たぶん一角だけで500メートル四方くらいは軽くあるものが3つ繋がってて、中には無数のトラックが収納されている。でもさ、広いとはいっても屋内は真っ暗闇なのよ？　唯一の搬入口は真正面のしっかり見えるところにあるし、そこから誰かが入ってきたなら気配より何より先にまず、目が外から漏れた光を感知するはず。でも、ぜんぜんそんなことはなかったの―――要するに、刺客は最初っからこのガレージの中にいて、あたしが“7（ズィーベン）”から離れる隙を狙ってたんだ。何であたしたちがここに来ることを知ってたの？　隊長から爆弾の追跡を命令されたのは船から降りてからだってのに！
「“3（ドライ）”！」
　あたしが叫ぶと、ブレーカーががしゃり、と派手な音をたてて上げられ、車庫の中が一気に明るくなった。防犯カメラ？　警備員？　はん、槍でも弓でも持ってきなさいよ。
　たった今“7（ズィーベン）”の左膝を撃った黒服は驚いたみたいだった。あたしは猛ダッシュをかけて彼の背後に回り込み、その背中にウージ・サブマシンガンの連射を15発はぶち込んだ。赤外線スコープをつけたその刺客は、“7（ズィーベン）”を撃つより先にあたしの方に振り返った。M-14に防弾ベスト ―――全部軍の支給品じゃないのよ！　先週あたしにふられたディルバーグ曹長の差し金なの？　それとも彼氏があたしになびいちゃったカトリオーナ少尉の逆恨み？　さては隊長、リーデルバッハ大将の奥さんを寝取ったわね！
「“5（フェンフ）”！」
　近くのトラックの陰に隠れていた伊達男が地面に滑り込んで低めの射撃を開始した。隊長から買った20連打マグナムのうち一発が男のふくらはぎに当たり、それでも刺客は“5（フェンフ）”じゃなくてあたしに狙いをつけてM-14の引き金を引いた。
彼の弾丸があたしの残像を貫くころには、あたしはそいつの首筋にマシンガンのグリップをめり込ませていた。のろすぎるのよ、あんたの動きなんか止まって見えるわ。あたしは地面に倒れたそいつの手に踵を思いっきり打ちつけ、M-14を蹴り飛ばした。そいつが別の手でハンドガンを抜こうとしたから、あたしはそっちの手の上にバレエ仕込みの華麗な両足着地をしてみせた。彼の指の骨がぼきぼきといかれる音がして、“5（フェンフ）”の背後に追いついた“3（ドライ）”が顔をしかめた。
「“3（ドライ）”、“7（ズィーベン）”をお願い」
　彼は頷いてトラックの貨物室に上がっていった。あたしはその場にしゃがみこみ、刺客の顔から赤外線スコープをむしり取った。
「こりゃ驚いた、“4（フィーア）”、こいつぁギリアン中佐んとこのフィーリックスだぜ」
　“5（フェンフ）”が割って入った。フィーリックスと呼ばれた坊ちゃんは“5（フェンフ）”を睨みつけた。
「知ってるの？」
「知ってるも何も、俺たちゃ兄弟さ。なあ、そうだったよなフィーリー、何つったっけ、あのブロンドの家出娘」
　あたしは足をフィーリックスの手から下ろし、襟を引っ張って彼の半身を起こしてやった。見れば、トラックの脇にももう一人倒れて苦しそうに呻いていた。たぶん屋根の上から“7（ズィーベン）”と撃ち合いでもしたんでしょうね、左鎖骨の端から肩にかけて3発撃たれてるけど命に別状はなさそう。あたしはそいつを明るみに引っ張ってきて赤外線スコープをひっぺがした。びっくりしたのは、そいつがあたしの秘書課時代の同僚だったから。
「アルマンダ？　あんたアルマンダ・レットハイムでしょ？」
　彼女は憎々しげにあたしを見上げただけだった。“5（フェンフ）”が寄ってきて眉間に皺を寄せ、彼女を思い出そうとした。「えーと、元秘書課の現ギリアン中佐の部下兼シモの世話。だよな？」
「当たってるの、アリー？」
　アルマンダは返事をせずにあたしを睨み返した。あたしはフィーリックスから取り上げた38口径の銃口をアルマンダの頭に押し付けた。
「当たってるの、アリー？」
　アルマンダは依然としてあたしを睨みつけたまま一度だけ首を横に振った。
「シモの世話ってのが余計なお世話なのね、アリー？」　アルマンダは一度だけ頷いた。
「これって中佐の命令なの、アリー？」　アルマンダは目を細めてあたしを睨んだ。
　あたしはアルマンダの耳の横のコンクリート地面に１発だけ銃弾を撃ち込んだ。
「ごめん、手が滑った。跳弾で死ななくて運がよかったわね、アリー？」　アルマンダは飛び出しそうなほど目を見開いてこくこくと頷いた。
「“4（フィーア）”、こいつらはきっと口を割るくらいなら舌でも噛むぜ」“5（フェンフ）”が肩をすくめながら言った。きっと、アレクの娼館でこんな奴らをたくさん見てきたんだろう。
「噛みたきゃ勝手に噛めばいいのよ。舌噛むぞーとか言ってる奴は本当は誰かに止めて欲しいんだから。もしこいつらが本当に舌を噛むなり飲むなりすれば、その度胸に敬意を表して死体をギリアン中佐ん家の軒下に吊るしてあげるわ。あの人、隊長の親友だったんじゃないの？」
　あたしは一言も喋りそうにないアルマンダのみぞおちに軽く拳を叩き入れた。彼女が気絶したのを見届けてから、あたしは比較的話のできそうなフィーリックスに向き直り、砕けた手をおさえてその指先にナイフを突きつけた。
「悪いけど、あたし今かなり頭にきてるから。舌噛んで詫びるかきちんとしゃべるか二つに一つ、さもないとあんたの灰色の脳細胞がメリメリパチパチいいだして、ケラッグのライス・クリスピーみたいにポンポンはじけとぶまで何枚でも爪をひっぺがしてやるわよ」
　フィーリックスの喉仏がごくりと上下した。
「ち、中佐の命令じゃない…」
「で？」
「オレに言えるのはそれだけだ」
あたしは刃を平行にし、彼の左手親指と爪の間に当てた。「メリメリ、パチパチ、ポン！」
「そ、そんなことゲロしたらオレたちは処罰されちまうんだよ」　恐怖の滲んだ慈悲をすがる目。
　あたしはナイフを持つ手に少しだけ力を込め、爪をすくい上げるように刃を上に傾けた。フィーリックスの額から脂汗がだらだらと流れ落ちた。
「処罰ってどんなのよ？　舌を切られるの？　舌を抜かれるの？　もし殺されたってそれが何だってのよ、どうせ神経ガスが発動しちゃえばあんたは数千万人と一緒に無理心中じゃないの。それを分かってて解除役の“7（ズィーベン）”を殺そうとしたんでしょ？　そんなに死にたいならあたしがひと思いに殺ってあげるわよ」
「あんたらは何も分かってない！　DI-5は有効に利用されるためにあるんだ、決して発動させたりはしない！」フィーリックスの左手親指はあきらかに深爪状態になっていた。
「口先ではなんとでも言えるけどさ」　あたしはナイフを引いてベルトに収めた。「人間てのはね、したくないことはしないの。つまり、使うつもりのない神経ガスなんか送ってもらったりしないのよ。あたしは人の言葉は信じないけど人の行動は信じる。あんた、あたしたちを裏切った人間が言う“毒ガス有効利用”なんて話を真に受けるほど馬鹿なの？」
　フィーリックスは口をつぐんだ。やれやれ、何も考えずに命令だけ聞いてたのね。これ以上話したって無駄だから、あたしは彼のみぞおちにも鉄拳を見舞って昏倒させた。
「お、おい、“4（フィーア）”？」
「“5（フェンフ）”、そいつら縛り上げといて」
　あたしは負け犬たちを“5（フェンフ）”に任せて貨物室に上がった。貨物をよけた床の中央に“7（ズィーベン）”が水平に寝かされていた。モルヒネで安静にさせているのだろう、“3（ドライ）”が手の甲の傷口を縫ってやっているところだったけど、彼は目を閉じてただ静かに眠っていた。
「右腕と手の甲の弾は抜いた。膝は貫通してる」
　あたしは“7（ズィーベン）”の頬に汗でへばりついた髪を払ってやった。「ごめん。行かないでって言ってたのにね」
「“7（ズィーベン）”は左利きだったか？」
　絶望的な気分ってこういうのかな。「右利きよ」
「じゃあ今回の爆弾処理には復帰できないな。隊長を呼ぶしかないか」
「隊長も利き腕が使えないみたいよ。それに、たぶんこの爆弾に関しては誰も“7（ズィーベン）”の代わりにはなれないわ」
「そんなことはない。君は工科大出身だったな、“4（フィーア）”？」
　あたしは“3（ドライ）”の言わんとしているところを汲み取った。「あたしにやれっていうの？」
「この中じゃ理系畑の出は君しかいない。大丈夫だ、中身がなんであれ外側はただ電気と金属でできてるだけなんだから。君はその技術を学んでいて、“7 （ズィーベン）”が目を覚ましたら解除の仕方もわかるわけだ。やればいいだけだよ。簡単だ」
　あのね“3（ドライ）”、それってあたしが“7（ズィーベン）”に言ったせりふそのまんまよ。無責任なことを言われる気持ちが少し理解できた。八つ当たり気味に『あたしにできるわけないでしょ、あんたがやりなさいよ大先生！』って叫んでやりたくなったけど我慢した。
「“7（ズィーベン）”はいつ目を覚ますの？」
「モルヒネが切れたらだ。それまで君は爆弾を観察してだいたいの仕組みを掴んでおくといい」
溜息つくしかなかったわよ。あたしには真剣さが欠けていたんだって今さら分かったんだもの。“7（ズィーベン）”の背負ったプレッシャーを真面目に思いやっていればここまでびびらなかっただろうし、もう少し大学で真面目に授業を聞いておけば試験前一夜漬けの知識くらいちゃんと思い出せたはず。でも、どんなに自信がなくたって、自分には現役学生以下の技術しかないって分かっていたって、まったくレヴェル0の“3（ドライ）”や“5（フェンフ）”に押し付けるわけにはいかないじゃない？　あたしは決意を固めた。ほとんどやけくそだったけど。
「ううん、待つ時間が惜しいわ。あんたと“5（フェンフ）”は積荷を全部はけて箱の解体をして。あたしは“7（ズィーベン）”を叩き起こしてすぐに作業に入る。モルヒネの中和剤があるならバケツ一杯飲ませてやってよ。彼はマゾだから痛みを感じるくらいがいちばん心地いいはずよ」

『今何時だと思ってるんだ！』
「お休み中申し訳ありません、ヒリヤード少将。お取次ぎいただけたことを感謝いたします」
『その声は…　レニンシュタール少佐か？』
「作戦中ですのでお声を低めてくださいますよう」　
『今どこにいる？』
「ベッカーマン大通り896番地、テヴェレ・ホテルの701号室です。急な申し出で大変失礼ながら、ギリアン中佐が出張中につき私に援軍の指示を出せる方がおられません。少将殿にお伺いしたくご連絡を差し上げました」
『分かった。すぐに行く』
「よろしくお願いします」
　私はテヴェレ・ホテルの向かいの通りにある公衆電話を切り、背後で私を待っていた“9（ノイン）”に声をかけた。
「車を出せ。ここはやばい」
「少将を待たなくていいんだんし？」
　私は彼の持つチェック・シートにあるヒリヤード少将の欄に左手で×印をつけた。
「ヒリヤードは黒だ。“どうして夜中の2時に電話なんかかけた？”じゃなくて“どこにいる？”を真っ先に聞いてきた。相当寝ぼけてたんだろうが、一人でタンゴを踊る元気がありそうな奴は放っとくに限る」

『デュエインだ』
「夜分遅くに失礼いたします、中将殿。参謀本部のレニンシュタールです」
『少佐か！　久しぶりじゃないか、元気でやってるのか？』
「ええ、中将殿もお変わりなく…」
『こんな夜中にどうしたんだ？　まさかイシト君の夜泣きがひどいからうちに泊めてくれと言うわけでもあるまい？』
「ええ、そうお伺いしたかったのですがどうやらお取り込み中のご様子。中将殿の背後で麗しい寝息をたてていらっしゃる女性にどうかよろしくお伝えください」
　私はテヴェレ・ホテルから5ブロック離れたところにある公衆電話を切り、“9（ノイン）”の持つチェック・リストに×印をつけた。
「行くぞ。ハシエンダ・スイートまで飛ばしてくれ」
「中将も黒だてや？」
「ああ。くだらない長話をしたがる奴には後ろにいる逆探知仲間とさせときゃいいんだ」

『誰だ？』
「レニンシュタールです、リーデルバッハ大将。お休み中のご無礼をお許しください」
『構わない。どうした？』
「急な申し出で大変失礼ながら、ギリアン中佐が出張中につき私に援軍の指示を出せる方がおられません。大将殿にお伺いしたくご連絡を差し上げましたが、お引き受けいただけますか？」
『どういうことだ？　少佐、君は作戦中だったはずだ。それなのに司令部は何の指示も与えぬうちにギリアン中佐を追いやったというのか？』
「端的に言えばそのとおりです」
『分かった…　少し時間をくれ。一時間でいい。私の部下を全員動員できるよう準備させよう。どこにいるんだ？』
「目抜き通りの678番地、ハシエンダ・スイート・ホテルの一階にあるバーです」
『分かった。善処しよう』
「よろしくお願いします」
20分後、無印の車2台がホテルの入り口に現れ、リーデルバッハ大将が黒スーツを来た男3人を連れて車から降り立った。彼らはオートマティックのハンドガンを持っており、大将は先頭に立って他の3人に指示を出した。
「少佐一人だ。手短に済まそう。私は民間人が巻き込まれるのを好まない」
　私と“9（ノイン）”は向かいのビルの屋上から、彼らがハシエンダ・スイートに入って行くのを見届けた。
「隊長…」　
“9（ノイン）”がチェック・リストを私に差し出した。私は大きく嘆息し、ページまるまるを大きな×印で引っかき消して、そこに載った残り十数名あまりの名前を忘れることにした。
「さあすけえ、もう確認作業はなしかいや？」
「雑魚なんか放っておこうぜ。俺をなめるとどうなるか連中にたっぷり教えてやる」

　ハシエンダ・スイートからリーデルバッハ大将が去るのを見届けてから15分。“9（ノイン）”の運転するミニ・クーパーの中で大将たちがどこへ私を探しに行ったかをなんとなく思い浮かべながら、私はこれから“9（ノイン）”と二人だけでやらなければいけないことを考えた。“10（ツェン）”はここにはいない―――“1（アイン）”が“6（ゼクス）”のために呼んでやった医者が看護係を欲しがったので任せてきたのだ。心細くもあるが身軽でもあり、目下最重要事項であるDI-5の起爆係探しをするには悪くない面子であると思われた。ついでに、敵を攪乱できるだけしておく。爆弾の処理をしている『どぶさらい』班にはなるべく刺客の手が届かないように敵をきりきり舞いさせる。
腕の痛みには大分慣れたが、まだ動かせるほどではなかった。夕べから一睡もしていなかったことを思い出して、睡魔に襲われないためにはこの程度の痛みはもってこいだと考えて無理に自分を励ました。バック・ミラーで背後を観察しつつ、自分の顔が映らない位置に鏡を傾けた。実際、今の私の顔は相当ひどい ―――血色の悪いやつれた不精ひげ面が窓ガラスに映るたび、私は心底疲れた気分にさせられた。この顔でクロエを随分心配させてしまったようだが、彼女は私が子供達を連れて街から出るように言っても頷いてくれなかった。「気体の兵器なのでしたら、外に逃げるよりこの家の地下に避難する方が安全ですわ。それに、あなたがあくまで戦うのでしたら、わたくしもどこまでもお供したいのです」
　“9（ノイン）”はブラッカイマー大通りを右折して一番街に入り、すぐに現れた一番街駅のロータリーにミニを停めた。ストライキにより電車もバスもすべて運休中だったが、駅構内にたむろする浮浪者は相変わらずたくさんいた。私は“9（ノイン）”を連れてずらりと十数個並ぶ公衆電話の列の前に陣取った。ライトアップされた駅の時計台は明け方4時を指していた。
　私は一番右端の電話にコインを入れ、わざと非通知ナンバーを打たずにダイヤルを廻した。呼び出し音が3回だけ鳴った後、交換手の男の声が返ってきた。
『陸軍総司令部です』
　私は親友の声音を真似て丁寧に言った。
「ギリアン総督のオフィスに繋いでください」
『総督はお休み中です、サー』
「ギリアン中佐が急ぎの用だと言えば分かります」
　交換手は迅速だった。数秒後、彼の声が返ってきた。
『おまたせいたしました中佐、総督がお出になられます』
「少しだけ待っておいてもらえますか、エリーニャからの国際通話なので」
　私は受話器を電話の上に置き、隣の公衆電話の受話器を持ち上げて同じナンバーを廻した。今度もまた非通知ナンバーは打たなかった。
　呼び出し音が2回鳴った後、今度は女の交換手の声がした。
『陸軍総司令部です』
　私はさっき話した三人の将官たちの中から最も私の声に近いと思われるヒリヤードの話し方を真似た。
「ギリアン総督のオフィスに」
『総督は現在執務室にはおられません』
「ヒリヤード少将がレニンシュタール少佐のことでご報告があると伝えてくれ」
　交換手はまたも迅速に作業した。
『少将、お待たせいたしました。ギリアン総督のオフィスに繋がりました』
「すまんが少し切らずに待ってもらってくれないか、部下が私に話があるようだ」
　私はまたも受話器を電話の上に置き、3つ目の公衆電話に移って同じことをまた繰り返した。3人目の交換手の声が返ってきた。
『陸軍総司令部です』
「レニンシュタール少佐だ。ギリアン総督と話したい」
　電話の向こうがざわめいた。
『…少々お待ちください、少佐』
　交換手はインターコムを使って忙しく動き回った。神経を研ぎ澄ますと、電話の向こうからかすかに『総督、レニンシュタール少佐が3番ラインにいます』と聞こえた。そして、電話の向こうのざわめきは一斉に静まり返った。私と話す準備ができたのだろう。
　私は駅の時計台を見上げた。秒針がたった今文字盤の12を通過した。
　受話器の向こうから獰猛さを潜ませた重厚な低音が返ってきた。
『―――ギリアンだ、少佐』
　私はオペレーション・センターの様子を頭に思い描いた。交換手がナンバーを打ち込んで私の居場所を検索しているだろう。私は短く息を吸って話し始めた。
「総督閣下、このような早い時間にオフィスにいらっしゃるとは思いませんでした」
『君からの連絡を待っていた。少佐、電話では誰に盗聴されるとも限らん。今から総司令部に出頭しろ。君と君の部下の報告を聞こう』
「いいえ、ご遠慮申し上げます。総司令部に着くまでの飛行機が事故に遭わないとも限りません」
　オペレーション・センターの中央ディスプレイに数字が浮かぶ。AX121-b、AX121-c、AX121-d。時計台を見上げると、秒針が12にもうすぐ戻ってくるところだった。5秒前、４、3、2…
『少佐、君は何か誤解しているな。私に提案があるのだが―――』
　私はきっかり1分で電話を切った。そしてさっき繋ぎっぱなしにしておいた2番目の電話の受話器を取り上げ、交換手に話し掛けた。「総督に繋いでくれ」
『レニンシュタール少佐が2番ラインにいます！』　女交換手の金切り声。『何だって？　どうなってる！』　総督の怒鳴り声。ばたばたと走り回る音。
ギリアン総督が電話に出た。『少佐か？』
「閣下、私にも提案があるのですが聞いていただけないでしょうか？」
『いいだろう。言ってみろ』
「閣下が全軍に差し向けている私と部下への暗殺命令を今すぐに取り下げてください。そしてラナケスから送られたDI-5の起爆係の任を解き、遠隔起爆装置を破棄してください。駆け引き用の解毒剤があるなら今すぐ全市民に配布を。さもないとこの一連の出来事のすべてをガルディア、エルニド、カスティリャ、フローレンツォ、シャンゼリパーニュ、そしてヤスパースのマスコミに発表してあなたを潰します」
『君がこの状況を理解していることは信じる。この問題をどう取り扱うか我々は話し合うべきだな。少佐、今すぐ総司令部に出頭しろ』
「この問題をどう取り扱うかは私が決めます。閣下、速やかに私の要求を飲んでください。私の後ろには子爵と彼に親しい貴族たちがついているのをご存知ですね？　親友の父親だからといって私が手加減するなどとはお思いにならないことをお勧めします」
『少佐―――』
　時計台の秒針が12に戻ってきた。私はまた一分きっかりで電話を切った。そして繋ぎっぱなしの1番目の電話の受話器を取り上げた。「総督に繋げ」
『少佐です！　一番ラインにいます！』　交換手の声。『一体どうなっているんだ！』　誰かの金切り声。ばたばたと走り回る音。『今度は逃がすな！』　猛禽類の鍵爪のような総督の怒声。
総督が電話に飛びついてきた。『少佐、よく聞くがいい。これはラナケスとの和平交渉の第一歩なのだ』
「いいえ、話を聞くのはあなたの方です。あなたは私にストライキの黒幕を暴く任を与えてから、真の黒幕に買収された。陸軍の引き立てを約束されましたね？　皇妃なのかスヴェトラーナ・クアジンスキーなのかはどっちでもいい。閣下、あなたは私を彼らに売り、物言わぬ死人にしてからこの件の黒幕としてでっち挙げようと謀っている。5リットルものDI-5は何のつもりですか？　全市民の命を犠牲にするかもしれない毒を使った和平などをどうやって信じろと？　最後の交渉です。暗殺命令を取り下げ、DI-5の起爆装置と解毒剤に適切な措置を」
『君の勝ちだ、少佐。その要求は君が総司令部に来た時点で飲もう』
「指輪と一緒にでしょうか」
「―――！」
「よく分かりました、総督閣下。あなたが欲しかったのはこれだったのですね」
『何だと？』
「さんざん殺されかかった私が取引なんか信用するとでも？」
『マテウス、貴様！』
「ごきげんよう」
　私は電話を切った。一分と少し経っていた。計算どおりだ。
　私が“9（ノイン）”に向き直ると、彼は10歳くらいの子供の乞食にからまれていた。私は財布から千ギル札を取り出し、子供の前に差し出した。
「坊や、パレポリ語は話せるかい？」
「おじさん、このお金くれるの？」　彼はウシリス語訛りで返した。
「おじさんの頼みを聞いてくれたらもっとたくさんあげるさ。これから１、2時間経ったらここに黒い服を着た怖いおじさんたちがいっぱい来る。その人たちに “背の高い黒髪のおじさんはシナ・タウンのアンクル・チャンの店へ行くって話してた”って言ってくれるかい？」
「その人たちもお金くれる？」
「パレポリが買えるくらいな。いっぱいねだってやんな」
　私は坊やにもう一枚だけ千ギル札を握らせ、彼の頭をぽんぽんと軽く叩いてやってから“9（ノイン）”と共に彼のミニに乗り込んだ。「“9（ノイン）”、カスティリャ人街だ。レヴォルシオン通りの1287番地に回してくれ」
「こんな時間に行くには治安が悪すぎるとこだんし」
「あそこはグーフィーのシマだから俺に手を出そうとする馬鹿はいねえよ。もうじき夜明けだ。できることをとっととやっちまおう」
　“9（ノイン）”は私の指示した地域に向けて車を走らせた。私が飛ばさないように言ってあったので、交通取締りのパトカーに捕まらない程度のゆるいスピードだった。急ぎ足を踏むより周囲に気を配っていたかった。
　バック・ミラーには何も映っていなかった。まだ尾行は開始されていないようだ。私は無線を手にとり、“1（アイン）”に連絡した。
「起きてるか、ラインハルト？」
『旦那様、どうなさいました？』
「俺の話を聞き終えたら少し眠っとけ。指輪のことなんだが、肌身離さず持ってるか？」
『ええ。なるべくそうしています』
「さすがに軍には子爵令嬢に手を出そうとする野暮天はいないだろうから、家の中ならいいんだ。ただ、一歩でもうちの敷地を出たらおまえの首にぶら下がってるそいつを狙って刺客どもがわんさか押し寄せると思え。今度は総督の手先だから注意しろよ？　あの辺の権力者の部下はポン中の淫売なんざ比較にならねえ “9（ノイン）”並のスナイパーどもだよ」
『総督が？　この指輪を？』
「ラナケスとの和平がどうのって話に絡んでるそうだ。俺が思うに、たぶんそいつはDI-5の遠隔起爆装置の一部か何かだろう。奴らが欲しがってるってことは駆け引きに使えるってことだ。今は俺が持ってるってことになってるから、おまえはそれを虎の子だと思って徹底的に隠し通せ」
『ギリアン総督がスヴェトラーナ側についたとは、一体どういうことなのですか？』
「奇跡の逆転ホームランでも打たなきゃみんな揃ってあの世行きってこった。また何か分かったら連絡するから今はとりあえず寝てろ」
『でも旦那様、あなたが指輪を持っていることになっているなら、あなたの方に“9（ノイン）”並の刺客が押し寄せるのでは…』
「心配してばっかりの男の話をしてやるよ。そいつは髪が抜けるのを恐れて髪を全部抜いちまったのさ、“これでもう禿げなくてすむ”ってな。お粗末さま」
　“1（アイン）”の少年時代の不眠症が復活しないように私は無線を切った。次いで、私は『どぶさらい』班にかけた。
「起きてるか、“4（フィーア）”？」
『それどころじゃないでしょうが！　隊長がリーデルバッハ大将の奥さんを寝取ったせいでこうなったんだからね！』
「あのイトマキエイとブルテリアの異種交配みたいな婆さんかカレー味のうんこかどっちかを食えって言われたら俺は後者を選ぶかもしれんね。一体どうしたよ？」
『“7（ズィーベン）”が右手を撃たれたの。DI-5の処理はあたしがやることになったわ』
衝撃的な内容だった。「ジーザス・クライスト」
『いいえ隊長、ヨハン・ヘイゼルバーグよ』
「“7（ズィーベン）”に意識があるなら問題ない。あいつがおまえの傍で指示を出すんだろ？」
『それがなかなか起きてくれないのよ。手だけじゃなくて二の腕と左膝も撃たれてるから、“3（ドライ）”が少し濃い目のモルヒネを打ったらしいんだわ』
ボディ・ブローなみにこたえた。「ジーザス・ファッキン・クライスト」
『いいえ隊長、フェリシテ・ヴァン・ダム・ディーデリッヒ』
「むりやりにでも叩き起こせ。俺は起爆係を探す。ところで、科学庁の爆発物研究者がヤスパースに行くとヤクザ・ファミリーから尊敬される。なんでか分かるか？」
『さあ？　どうして？』
「指が一本もねえからさ。お粗末さま」
『ぜんぜん冴えないわね、隊長。あたしって、そこまで心配かけるほど頼りなく見えるかな？』

　家に立ち寄ったときに変装を考えてもいたが、武器を隠すために上着が必要なのと、怪我をした肩を無理矢理袖に通さなければならないのとで、結局私は腰丈のゆるめの革コートをシャツの上に羽織っただけの格好だった。戦闘服を着れば囮として申し分なく目立てるが、“9（ノイン）”がすでにその役目を負ってくれているから私はわざとらしくない程度で結構だろうと思われた。着替えついでにクロエのコレクションの中から“1（アイン）”に持たせてある指輪に似たものを選んで借り受け、無くしたら新しいものを買ってやる約束で鎖をつけて首に下げておいた。しかし、よく見たらそれは私が独身時代に必死に生活を切り詰めて買った婚約指輪で、“ファーム”の給料三か月分をまるまる返済金に当てた困窮の日々が脳裏にちらつき、1（アイン）”の持っている葬送指輪以上に頑張って守り抜かねばならないという妙な気合いが入った。
“9（ノイン）”は17番街を一番大きな交差点で左折し、レヴォルシオン通りに入った。そこから10ブロックにも及ぶカスティリャ人街はアレクの娼家周辺地域と似たスラム的な薄汚さがあったが、通りにずらっと並んだナイトクラブからは朝一番のドンキー・ショーの賑やかな掛け声が響いてくるわ、海兵隊の男たちが立ちんぼの娼婦やペニシリンのプッシャーと駆け引きを繰り広げているわで、夜明け前にはあるまじき賑やかさがあった。私は1287番地で降り、“9 （ノイン）”を車の中に待たせて一軒家のドアのノッカーをかちかち鳴らした。
「キエン？　キエン・エス？」　ざらざらしたカスティリャ語が返ってきた。
「トラフィカンテ・バスケス。俺だ」
　ドアが開き、寸足らずの胡散臭そうなカスティリャ人が姿を現した。
「マテウス！　ミ・パドローネ！」
「ようパンチョ。こんな時間まで仕事だなんて精が出るな。割り込んですまないんだが、新しいパスポートが必要なんだ。作ってくれるだろ？」
　私が札束を渡すと、トラフィカンテは目を輝かせて私を家の中に招き入れてドアを閉めた。
「右肩が腫れ上がってるじゃないか。脱臼かい、ケリード？」
「かみさんを怒らせちまってね。包丁持って追っかけまわされてるうちに豆腐の角にぶっつけた。夜が明ける前に高飛びするのさ」
「あんたも懲りない男だな。まったくもってミェルダだ。そんなエスツーピドなあんたにぴったりなのがあるぞ。国籍はシャンゼリパーニュだが36歳でパレポリ発行の労働ビザあり。職業はウェディング・プランナーで名前はフランソワ・ドゥ・ヘイヴンだ。気に入ったかね？」
「似合わんね」
「あんたのコレクションに一冊追加するだけさ。写真を撮るからそこのスクリーンの前に立ってくれよ」
　トラフィカンテは白い背景スクリーンの前に立った私に照明を当て、ポラロイド・カメラのシャッターを切った。私は出てきた写真を見て顔をしかめてみせた。
「30人殺した精神異常殺人犯のムショ入りってとこだな。目を凝らすとセント・グリフィスの囚人番号が見える」
「なんでだ？　あんたはいつだってグァポさ」
「もっとにっこり笑ってる方がいい。撮りなおしてくれ」
「これだから洒落っ気の強いグリンゴにはかなわんね。ひげも剃らない不精者のくせに写真が悪きゃカメラのせいときたもんだ。まったくもってミェルダだよ」
　トラフィカンテは面倒臭そうにもう一回シャッターを切った。私は再び顔をしかめてみせた。「最悪だな。もう一枚」
　トラフィカンテはやけくそ気味にシャッターを切り続けた。連続して3回撮ったところで彼は投げ出した。「カット！　クランク・アップだ」
　私は5枚を見比べ、最後に出てきた写真を取り上げた。「これがいちばんましだな」
「どれだって同じだよ、パドローネ。5分かかるぞ。あんたは勝手にコーヒーでも入れてくつろいでな。ミ・カサ、ツ・カサだ」
「おかまいなく、アミーゴ」
　私はさりげなく余った4枚の写真をポケットに入れ、ソファにだらりとかけて、ぼけっと外を見やるふりをしてトラフィカンテの仕事ぶりを横目で盗み見た。彼はパスポートのラミネート部分をカッターで丁寧にはがし、さっき撮った写真を定型に切り、接着剤できれいに貼り付けた―――なるほどうまいものだ。
「パーフェクトウ」　トラフィカンテが感嘆の声を上げたので、私はそっちに歩み寄った。
　偽造パスポートは申し分ない出来だった。私が口笛を吹いてみせると、陽気なカスティリャ人は腕を広げて得意げに笑った。私は少々かがんで彼の寸足らずの背を抱くようにハグを交わした。その隙に彼の背後の作業台の上にあったカッターと接着剤を袖の中にそっと忍ばせた。
「助かったぜエル・マエストロ。困ったときはあんたを頼るに限る」
「まったくもってミェルダな話だ。かみさんに怒鳴られたくらいでおれのところに来るエスツーピドなグリンゴは実に失うのが惜しい最高の顧客だよ。ブエノス・ディアス、ムッシュー・ドゥ・ヘイヴン。歯ブラシを忘れずに詰めて、ときどき絵はがきをくれ」

　外に出ると、東の空が白み始めていた。私はさっきトラフィカンテに作ってもらったパスポートを近くにあったごみ缶の中に投げ入れた。
「隊長、それ捨ててしまうんだがか？」　“9（ノイン）”が私に向けて車のドアを開けた。
「奴らにムッシュー・ドゥ・ヘイヴンを追い掛け回させてやるのさ。トラフィカンテは俺の妹といい勝負のぐうたらだぜ、毎日昼2時起床のあいつが朝4時に起きて俺を待ってたなんて、考えるまでもなくストーカー一味同様俺にぞっこん惚れ込んでるんだろうよ。次は空港に回してくれ」
　“9（ノイン）”は車を思い切りUターンさせ、教練所の近くにある空港へと車首を向けた。
「空港といえば、近くのハヴィランド運送に“7（ズィーベン）”たちがいるがんです、隊長」
「様子見に寄ってやりたいところだが、そんな時間はなさそうだな。“7（ズィーベン）”が起きるまでどれくらいかかるか分からねえし、ただでさえ3箇所も撃たれてるから目が醒めてもまともに物事を考えられるかどうか分からない。起爆係を見つけるまで俺たちは休めないぜ。心配か？」
　“9（ノイン）”は耳まで真っ赤になってぶるぶる首を横に振った。私は笑った。
「人の好みにケチをつける気はないが、“4（フィーア）”のどこがそんなにいいのか俺にはよく分からんね」
「か、からかわんでくんない隊長、“4（フィーア）”は姉んねに少し似てるだけだべしゃ」
「おまえもいいかげん女に縁がねえんだな。クロエに頼んでやるよ、“1（アイン）”と一緒にお見合いでもさせてもらえ」
　バック・ミラーに緑色のアウディが映った。
「俺、初対面の女子とは話せねえ」
「それがどうしたよ、俺だって初対面の犬や猫とは話せんさ。会話でしか間を持たせられないような女は“2（ツヴァイ）”にくれてやればいいんだよ、どうせ長続きしねえから付き合ったところで時間と金の無駄だね。次の信号を右へ」
　“9（ノイン）”は右へ曲った。アウディもついてきた。
「だども、“4（フィーア）”は俺の訛りをいっぺんごとも馬鹿にしなかったがんだ。めんこいすけえ、教練所の男衆に人気あったがんども、他の女子衆みてに俺を遠巻きにしなかったんだてや」
　アウディはつかず離れずの位置を保ち、隣の車線からついてきていた。次の角でアウディは消え、代わりに白いレクサスが現れた。明らかに訓練された者の尾行だ。アウディとレクサスの他に少なくともあと1台はついてきているだろう。
「いまだに遠巻きにされてるみたいだぜ。“9（ノイン）”、大人気だな」
「撒くだがか？」
「好きなだけ派手に」
「了解だのんし」
　言うなり、“9（ノイン）”はアクセルを思い切り踏み込んだ。レクサスがスピードを上げて追いかけてきた。交差点を通り過ぎるときに周囲に気を配ると、緑色のアウディの他に黒いジャガーが１ブロック東を平行して走っているのが見えた。“6（ゼクス）”を追いかけたのはオペルとフィアットだったが、私相手にそれでは通用しないと思ったのだろう、性能重視の高級車をカーチェイスに駆り出すとは金のある陸軍ならではだ。
「隊長、シートベルトを閉めてくんない」
　言うなり、“9（ノイン）”はハンドルを切って歩道に乗り上げた。彼は地下鉄の入り口に突っ込み、多少減速しながら階段を一気にミニで走り降りた。振動による肩の痛みに耐えながら背後を振り返ると、ジャガーが狭い入り口の横幅に突っかかって身動きが取れなくなっていた。
私は口笛を吹いた。「俺の次の車はこれに決まりだな」
「“4（フィーア）”は俺の訛りは馬鹿にしなかったども、このミニっこをローラースケートって言って笑っただ」
「当時付き合ってた男が戦車にでも乗ってたんだろ。あんな小娘は“7（ズィーベン）”にでもくれてやったらいいじゃねえか。おまえはもっといい女を見つけろよ」
「“7（ズィーベン）”も“4（フィーア）”に気があるだがか？」
「ボランティアだよ。童貞のまま死なせるには惜しい男だからな」
　“9（ノイン）”はがらんとした地下鉄のプラットホームを突っ切り、線路にダイブした。ジャガーが入り口を塞いだおかげでアウディとレクサスは先回りを試みていることだろう。そうこう考えているうちに三叉に分かたれた最初の分岐が現れた。私は適当に空港に近そうなコースを選んだ。「いちばん左に入れ」
　“9（ノイン）”は言われたとおりに一番左の分岐路に入り込んだ。そのとき、真中の分岐路から中央銀行の紙幣運搬車がレールを軋ませて走り出てきた。冷や汗が流れた。
「マネー・トレインだけは運休にならないみたいだな」
「隊長、外に出た方がいいだがか？」
「そうだな。おまえも田舎っぺのまま死なすにゃ惜しい」
　一本道を抜け、私たちは4本の線路が交差するオープン・スペースに出た。辿っていくと二本づつにまとめられ、最寄駅のプラットホームが中央分離体の役目をしていた。どうやってホームまで上がるのかは知らないが、そこは“9（ノイン）”に任せるとして、運がよければこのまま空港周辺の地上に出られると思われた。
　しかし、追っ手のレクサスが右手側のプラットホームの上で待っていた。運の悪いことに、その窓とサン・ルーフから身を乗り出していた二人の黒服はマシンガンを構えていた。
「“9（ノイン）”、飛ばせるだけ飛ばせ！」
叫ぶと同時に身体にGがかかった。マシンガンの射撃が車尾を追い、何度か車のどてっ腹を撃たれた気もしたが“9（ノイン）”の速さには追いつけなかった。ホームが切れるころに分岐が2つ現れた。「隊長、どっちだすけ!?」
「左！」　適当に叫ぶと同時に、左手側プラットホームにアウディが現れて私たちに飛びかかってきた。“9（ノイン）”はハンドルを切ってそれを避け、入ろうとしていた方ではない右の分岐路に進路を変更した。私は38口径を抜いて窓から身を乗り出そうとした。
「隊長、引っ込むだんし！」
　私が身を縮めると同時にミニは狭い分岐路に入り込んだ。アウディもついてきた。最悪なことに、前方から眩しいライトとレールの軋む音が聞こえてきた。
「“9（ノイン）”、戻れ！」
「無理だんし、隊長！」
「いいから少しブレーキを踏め！」　私はギアをむりやりリヴァースに入れた。マネー・トレインはもうそこまで迫ってきていた。ミニの車尾はアウディに衝突し、その衝撃を食らってひるんだアウディの運転手に向けて、私は左手で窓ガラス越しに38口径を撃ち鳴らした。もちろん当たらなかったが、アウディの運転手に危機感を与えて後退させるには充分の威嚇だった。私は左足を“9（ノイン）”の右足の上に乗せてアクセルを床まで踏み抜いた。ミニの車尾がアウディを分岐路から押し出し、ミニの車首が分岐路から完全に出きった瞬間、私はハンドルを思い切り左にひねり上げて線路から退いた。
　マネー・トレインがアウディに正面から衝突した。それでも勢いは止まらず、庶民の夢を積んだ電車は暗殺者2名の命を乗せて走り続けた。
マネー・トレインが走り去ってレクサスの暗殺者と私たちの隔たりをなくした瞬間、ミニはマシンガンの連射を浴び、それが漏れたガソリンに引火して紅蓮の炎を巻き上げた。二人の暗殺者たちは閉鎖空間でまともに浴びる熱風に目を覆った。その瞬間を、ミニからすでに降りて反対側プラットホームのベンチに隠れていた“9（ノイン）”の野生の本性が逃がさなかった。「よくも俺のミニっこを」
雪豹の咆哮がドラグノフの銃声を借りて地下鉄いっぱいに響き渡った。暗殺者たちはたった2撃で撃ち倒された。
敵の脅威の去った精神的静けさの中で、獣から人間に戻った“9（ノイン）”はスナイパー・ライフルを降ろして溜息をついた。「隊長の仕事っていつもこんなに危険だがか？」
「今日はましな方だな。相棒がまだ生きてる」
「とっぺつもねえ冗談言わんでくんない。これからどうするんだんし？　空港まで歩くだがか？」
「マネー・トレインでも追おうぜ、おまえに“4（フィーア）”に馬鹿にされないようなでっかい車を買ってやるよ。地下鉄でジェトコースター遊びをしようなんて気が二度と起こらないようなどでかいのを」
「俺、泥棒はだめだって死んだおっ母に言われてるだ」
「ママの言うことを忠実に守り抜いた男の話をしてやるよ。そいつは“パパみたいになっちゃだめよ”って母ちゃんに言われて性転換手術を受けた。お粗末さま」
　私はいまだにぼろぼろの鉄塊になったミニ・クーパーを名残惜しげに見つめている“9（ノイン）”の肩をぽんと叩き、線路の上を歩き出した。彼の手前“今日はましな方”などと一応言ってはみたものの、ドワイト・ヤヘルカなみのお粗末さましか出てこない日は大抵ろくなことがないのだと、歯痒い気分で思ったりもしたがあまりにも根拠がないので忘れることにした。

　朝の9時ではあったが、空港のチケット予約カウンターにはすでに長蛇の列ができていた。私は最大手の航空会社を選んで並んだ。“9（ノイン）”は外で待たせてある。彼は武装しているので、館内に入った途端に捕まるだろう―――セキュリティ・ガードたちに混ざって警察が闊歩し、普通の域を出ないまでも、ある種の物々しい雰囲気が確かにあった。黒服の暗殺者の姿は見たところまだない。私は、私の前に並んでいた30代後半の男のポケットからはみ出ていたパスポートを誰にも見られていないことを確認してそっと抜き取った。
　20分ほどで私の番が回ってきた。受付嬢がにっこりと微笑みかけた。
「パレポリ・インターナショナル・エアラインへようこそ。ご注文を、サー？」
　私も笑顔を返し、ひどいシャンゼリパーニュ訛りで彼女に話し掛けた。
「今日の午後に出るフローレンツォ行きが欲しいんだが。ファースト・クラスでもエコノミーでもいいから、とりあえず禁煙席を確保してくれないか、マドモアゼル？」
「少々お待ちくださいませ」
　受付嬢はぱちぱちとキーボードを弾いてすばやく検索した。
「14時の便のビジネス・クラスにキャンセルがございます。いかがですか？」
「いいね、それにしよう」
「ご予約のお名前を、サー？」
「フランソワ・ドゥ・ヘイヴン。綴りはH-A-V-E-Nだ。チケットの名前の部分は空欄にしておいてくれないか？　会社名義なんでね」
「かしこまりました、ミスター・ドゥ・ヘイヴン」
「メルシィ。ついでに、明日の便でフローレンツォからヤスパースまでのも予約したい」
「少々お待ちくださいませ。……はい、こちらも午後6時の便にファースト・クラスがございます」
「それにしよう。それから、あさってにヤスパースから出るウシリス行きの便も頼む」
「かしこまりました。……こちらは午後3時の便にエコノミー席がございますが、そちらでよろしいでしょうか？」
「構わないよ。最後に、しあさっての便で、ウシリスから出るベイジーン行きも予約したい。これは大型じゃなくてラナケス経由のセスナがいいね」
「あのう、サー、これは何かの冗談でしょうか、それとも…」
　たぶん、私は笑い出しそうな顔をしていたのだろう。笑いついでにウィンクし、怪訝そうな顔をしている受付嬢の鼻先に黄金に輝くカードを突きつけてやった。「キャンセルの場合も全額払うよ、マドモアゼル。経費は会社持ちだからね」
　彼女は印刷機から出てきたばかりのチケットを馬鹿丁寧に封筒に入れ、最高の笑顔とともに類稀なる上客の私に差し出した。
「ありがとうございました。またのご利用をお待ちしております、ミスター・ドゥ・ヘイヴン」

　私はトイレに向かう途中、さきほど私の前に並んでいた男にしたのと同じような方法であと3冊ものパスポートを手に入れた。全部で4冊―――充分だ。いずれも私と同じ歳の頃の白人男性のものだったが、国籍は実に多彩だった：エルドリッジ・ギルフォイル、35歳、エルニド人。フェデリコ・ロッシ、36歳、フローレンツォ人。ダニエル・スワンソン、39歳、ガルディア人。ニコライ・ブロコビッチ、41歳、ラナケス人。
私はトイレに入って個室の鍵を閉め、便座のふたを台にして作業に取り掛かった。トラフィカンテ・バスケスの仕事を思い出し、彼から拝借したカッターでパスポートのラミネート部分を一枚一枚丁寧にはがし、定型に切り取った私の顔写真を4枚とも貼り付け、接着剤で慎重にもとに戻した。左手一本ではやりにくいことこの上なかったが、苦労のかいあって4冊の偽造パスポートたちはトラフィカンテのもの以上に完璧に仕上がった。
　あとはこれらをチケットとともに街中にばら撒くだけだ。まずは一冊、空港内の失せ物預かり所の近くにでも落としてやるといいだろう。私はトイレから出た。空港内は物々しい雰囲気ながらも至って普通―――警備員はコーヒーの紙コップを片手に歩き回っているし、あくびを噛み殺しながらチェック・インの列に並んでいる若者たちは退屈そうだし、過重手荷物の割増料金を値切っているおばさんは必死だ。おかしい気がしないでもない。普通すぎる。
そのとき、空港内に呼び出しアナウンスが響き渡った。
『マテウス・レニンシュタール様。お連れ様からご連絡を預かっております。至急、館内中央にある黒い優先電話をお取りください。マテウス・レニンシュタール様。お連れ様からご連絡を預かっております。至急、館内中央にある黒い優先電話をお取りください』
　誰の仕業だ？　私は館内中央にあるという黒電話の周辺に視線を走らせた。黒服こそいなかったものの、明らかに一般人とは雰囲気を異にした隙のない私服が何人か黒電話を遠巻きに見守っていた。彼らのジャケットの脇の下には武器によるふくらみがあり、よく見たらその中の一人は後ろ姿がヒリヤード少将にそっくりだった。
私は咄嗟に、目の前を通りかかったスーツ姿の男を呼び止めた。「あの、すみませんが」
「はい？」　彼が私の方を振り向いた。少し私に似た印象のある黒髪の30代だった。ちょうど、私が外資系のビジネスマンに変装するとこんなかんじになる。
　私は荷物の割増料金をいまだに値切っているおばさんの方を指さして言った。「母が少しもたついているんです。申し訳ありませんが、私の代わりに黒い優先電話まで行って、“マテウスは一時間後にホテルで落ち合う”と連れに話していただけませんか？」
「すみません、私も急いでいますので」
「お願いします。一言伝えていただければいいんです」　私は彼の手に一万ギル札を握らせた。
彼の目は輝いた。「お安いご用ですとも」
彼が振り向いた瞬間、私はその鞄の内ポケットにチケット一枚と偽造パスポート一冊をそっとねじ込んだ。彼はそれに気付かず、中央まで歩いて行って黒電話の受話器を取った。「もしもし？」
次の瞬間、電話を遠巻きに見守っていた4人の私服の男たちが彼に飛びかかった。男たちは何の罪もない哀れな身代わりを床に押し付け、彼の鞄を開けて中身をひっくり返した。
「ヒリヤード少将、外国籍の偽造パスポートとフローレンツォへの片道航空券です。レニンシュタール少佐本人に間違いありません」
「お、おい、何するんだよ!?　俺は何もしてないぞ！」
　ヒリヤード少将は身代わり男の髪を掴んで上を向かせた。
「無駄な抵抗はやめて観念しろ、少佐。君が変装と演技の達人だということを軍で知らない人間はいない。今朝はよくも私をたばかってくれたものだな？　部下を置いて高飛びしようとは見下げ果てた男だ」
「少佐だって？　人違いだよ、俺はただの外交販売員だ！　ソロモン＆Co.って、あんたらも聞いたことくらいあるだろ!?　これから営業なんだ！　俺はさっきの茶色い革ジャケの人に電話を取るように頼まれただけなんだよ！」
「抵抗すれば射殺してもいいように総督から許可をもらっている。レニンシュタール、佐官の分際であまり私を煩わせるなよ？　ただでさえ今朝のことがあるんだ、今こうしている間にも貴様の細首をへし折ってやりたくてたまらん」
「待ってくれ！　話を聞けよ！　俺はハーマンで、レニングラードじゃない！　俺ははめられたんだ！　あんたらの探してる男はあいつだ！」
　身代わり男が悲痛な叫びとともにさっきまで私のいた場所を指さした頃、私は別の方面の出口で“9（ノイン）”の借りてきたレンタカーに乗り込んでいた。

ミッション『Doomwatching』：“１（アイン）”

『俺が思うに、たぶんそいつはDI-5の遠隔起爆装置の一部か何かだろう』の一言が頭から離れず、首から外してナイトスタンドの上に置いてある指輪を見つめずにはいられなかった。マテウス様は突拍子もない当て推量をあまり意識せずに口に出して後から考える癖があるが、彼はその論が当たりなら皇妃はどうして私にこれを預けるような真似をしたのかは考えただろうか？　『しばらく…　しばらくの間でいいのです。その指輪を預かってはいただけないでしょうか。お礼はいたします』…と言っていたか。私にこれを託したときの、彼女のすがるような目つきが忘れられない。
朝の9時だった。結局一睡もしなかった。これから眠る気にもなれず、13時に出発するまでイシト様の遊び相手でもしてこようと思って私は自室から出て階下に降りた。すると、玄関近くの二人部屋の客間からげたげたとけたたましい笑い声が聞こえてきた。
「うわもう、隊長最高」　“2（ツヴァイ）”の声。
「先輩、デュエイン中将ってアホだったんすね」　“10（ツェン）”もひいひい言っている。
　私は彼らの部屋を覗いてみた。メイドの誰かが持ってきたのだろう、中央のコーヒー・テーブルの上にはちゃんと二人分の食事が乗っていたが、彼らはそれにまだ手をつけておらず、ベッドの上に置いた“8（アハト）”のラップトップ・コンピュータを眺めながら床を転げ回って爆笑していた。
「どうしたんだ？　隣に“6（ゼクス）”が寝てるんだが」
「おう“1（アイン）”、おまえもこれ見ろよ」
　“2(ツヴァイ)”は私の方へ“スナッチャー・411”を向けた。
　画面が4つに区切られていて、一目にして防犯カメラの映像だと分かった。“歓迎光臨、アンクル・クアンのチョウ・メンの店”と玄関先に書かれたレストランにデュエイン中将と黒服3人がいて、彼らに向かってシナ人のコックが片言のパレポリ語をまくしたてていた。
『マテウス、ここにいない。わたしの店、警察の許可取ってる。かね払った！　かね払ったよ！　アンクル・チンの店へ行くあるね！』
　デュエイン中将は次いで、画面右下に現れた。“歓迎光臨、アンクル・チンの点心の店”。
『マテウス、ここにいない。わたしの店、市の許可取ってる。かね払った！　かね払った！　アンクル・タオの店にマテウスいるよ！』
　デュエインは次いで、画面左下に現れた。“歓迎光臨、アンクル・タオの粥の店”
『マテウス、ここにいない。かね払った！　かね払ったよ！　あなた、アンクル・シンの店でマテウス見つける！』
シナ・タウン流のたらいまわし―――商売敵から商売敵への押し付け合いだ。デュエイン中将はおそらく、旦那様の仕掛けた策略によって永遠のループ地獄に放り込まれたのだろう。彼がそれに気付くのはいつだろうと訝った頃には、私も“2（ツヴァイ）”と“10（ツェン）”に混じって腹を抱えながら笑い転げていた。